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そしてついに、注ぎの油がアロンの頭上に注がれました。「それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこに、とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇133・2-3)
ヘブル的な思想を伝える人々は、常に視覚に訴える手法を用いています。この箇所では、しばしばその頂上が雪で覆われるヘルモン山を選んでいます。そして油注ぎの油は、ちょうどヘルモン山に下りる露のようだと言っています。アロンの頭を流れ下り、ひげを潤し、聖なる祭司服にまで至るのです。何という麗しい情景でしょうか。
しかしながら、この油注ぎの瞬間は、視覚に訴えるだけのものではありません。それよりはるかに深い意義をもっているのです。イエスはこの油注ぎを次のように表現しました。「あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。」(ルカ7・46)。モーセはアロンとその息子たちに油を注ぐように命じられました(出エジ30・30)。その油注ぎの目的は明確です。それは、「祭司として神と民とに仕えさせるため」でした。そして邪悪な世の世界から「取り分けられるため」でした。彼らは神に仕えるために召されましたが、それにはまず油注ぎが必要だったのです。
王も預言者も油注ぎを受けました。神はエリヤに明らかな指図を与えられました。「主は彼に仰せられた。『さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。またニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。またアベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。』」(T列王19・15-16)
預言者は、実際に油注ぎを受 けることによって預言者と認め られるのが普通でした。それによって、神が彼らに示される事 柄が公に確認されました。また 彼らは「油を注がれた者」と呼ばれました。契約の箱がダビデ の準備した天幕に持ち込まれた とき、非常に聖なる厳粛なことが起こりました。「わたしの油 そそがれた者たちに触れるな。 わたしの預言者たちに危害を加えるな。」(T歴代16・22)という厳しい訓戒が与えられたのです。
古代から、ヘブル人は油注ぎを行ってきた
油注ぎに用いられる品々も聖別され、油を注がれました(創世31・13、出エジ30・26-28参照)。ルツはナオミにその身に油を注ぐように言われました。「あなたはからだを洗って、油を塗り、晴れ着をまとい……なさい。」(ルツ3・3)。これはルツがボアズに良い印象を与えることができるようにという、ナオミの配慮でした。ナオミはルツがイゼベルのように派手に化粧をするのではなく、最上の衣服を身に着け、正しく適切な方法でボアズに近づくようにと教えました。この箇所では、私たちが神の御前に近づこうとするとき、霊的に心を整える準備が必要であることを教えています。
新約聖書には、油注ぎのもう一つ別の目的が記されています。使徒は、病人たちのために癒やしを祈るときに、油を塗りました。「悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。」(マルコ6・13)
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