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イエスの弟子教育
紀元1世紀――ユダヤ教のラビは、国内を巡って人々を教える巡回教師でした。イエスもまた、当時の典型的なラビの一人として、ご自身と同じ歴史と伝統をもつユダヤ人の中から、弟子となる人々を選ばれました。そして、彼らを傍に置き、生き生きとした交流の中で育成しました。
弟子たちは、すべてのものを後にして主と共に旅をし、主の御業と、それに対する人々の反応を観察しました。彼らは主に愛と忠誠を尽くし、食物を調達し、料理をし、旅の道連れとなり、主を危険からお守りしました。何千という人々が主の癒やしを必要とし、主の御教えに飢え渇く中、主のアシスタントとして働きました。
このような役目を、ヘブライ語では「シムッシュ(奉仕)」と言いますが、その献身の見返りとして、弟子たちはトーラーに関する教えと洞察力を主から与えられました。弟子たちが成功するために、最も重要なことは、主のなさることを真似ることでした。イスラエルの大路や小道が、弟子訓練を受けるための教室となりました。彼らは熱い思いをもって主の御声を聴き、鋭い観察力で主のお人柄を記憶し、教えを自分たちに染み込ませていきました。
彼らは、トーラーの文字通りの読み方や強調点、姿勢など、多くのことを学び取りました。弟子たちは、ただ知的に養われるだけでなく、次第に、主と同じように変えられていくことを目標としていたのです。
冒頭で挙げた「弟子」という言葉の定義では、イエスの弟子たちを十分に理解することはできません。なぜ、現在の認識とこれほどまでに違ってしまったのでしょうか。また、この言葉に含まれたもっと深い意味が、イエスの弟子たちに当てはまるなら、今日の私たちにも当てはまるのではないでしょうか。
新しい戒めを教えるイエス
私たちの価値観とヘブル的価値観
イエスとその弟子たちは、共通の歴史や伝統に根差していただけでなく、宗教的、文化的常識も共有していました。彼らは、その時代と場所に適する礼儀や作法も身に付けていました。言い換えれば、彼らは共通した価値観をもっていたのです。
その価値観とは、唯一で真の神と、何千年にもわたって契約を結んでいた歴史に基づく価値観です。彼らは、神の教えを消化し、ユダヤ人としての解釈に基づいて生活していました。これを「ヘブル的価値観」(あるいはヘブル的思考、世界観)としています。イザヤ、エレミヤ、ダビデ王、その他、聖書に登場する信仰の勇者たちの考え方を採り入れた価値観でもあります。
この価値観の中に織り込まれているのは、聖書に基づく精神世界という、豊かで美しい伝統です。新約聖書は、私たち異邦人が、父祖アブラハムの養子として、すでに迎え入れられていること、アブラハムは養子縁組を通して私たちの父祖でもあることを語っています(ローマ4・16)。
主イエス・キリストを通して、イスラエルの歴史は私たちの歴史となり、主の家族は私たちの家族となり、主の伝統は私たちの伝統となったのです。そのような価値観から、私たちは、子として迎え入れられただけでなく、彼らの救いの概念さえも与えられたのです。
その概念とは、神との個人的な交わりの実現を意味します。また、ユダヤ人が、世代から世代へと大切に受け継いできた聖書を、彼らから受け取ったのです。主イエスは、イスラエルで救い主として現れましたが、そのお働きのゴールは、イスラエルと異邦人――全人類の救いにありました。ですから、彼らユダヤ人の価値観を共有することは、非常に大切なことです。