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古代のイスラエルの沐浴ミクヴェと呼ばれる水槽にはさまざま形態があった
浸礼を用いる最も重要な機会は、恐らく、「(神への)回帰」を表すものでしょう。ランプキンは記しています。
「キリスト教の時代以前、ユダヤ人は、一つの生き方から、もう一つ別の生き方への立ち返りを記念するために、あるいは不敬虔な生き方から、真実な礼拝者となるための意思を明らかにするために、沐浴を用いた。」(Lumpkin, P.5)。自発的に神への立ち返りを願う者たちに、浸礼を施すことが適切であるという理解は、当時、確立していたようです。
G・R・ビーズレイ・マレイは、以下のように説明しています。
「……水による儀式的なきよめは、記録にないほど遠い昔から行われていた。例えその歴史の大部分が忘れ去られても、(現在の教会において)洗礼という形で、力強く生き残っているのである。」(Baesley-Murray, G.R. Bap
tism in the New Testament. Grand Rapids: Edermans Publishing, 1962 P.1)
現代でも、超正統派と呼ばれる熱心なユダヤ教徒は、安息日や祭りの日の前に、ミクヴェ(ユダヤ教できよめの儀式に使われる水槽)に身体を浸すという古い習慣を守っています。また、トーラー(『モーセ五書』)の巻物を書写する書記たちは、仕事に取り掛かる前に、まず自分の体を水に浸してきよめます。(Kolatch, Alfred. The Jewish Book of Why.
New York: Jonathan David Publishers, 1985, P.123)
旧約聖書では、レビ記、民数記に、浸礼による儀式的なきよめについて言及がなされています。トーラーを守る大部分のユダヤ人は、今日でもそれを守っています。ドッケリーは次のように指摘しています。
「ユダヤ教におけるきよめの儀式は、主に仕えるために身を清潔にし、神にふさわしい者となる、ということを重点においていた。(レビ記13-17章、民数記19章)」(Dockery, David Baptism in the New Testament, Southwestern Journal of Theology, XLII:2(Spring 2001):4-16, P.6)
新約聖書でも、マルコ伝7章1-5節、ヘブル書9章19-20節において、きよめの水といけにえの血による、儀式的なきよめについて言及しています。しかしそれ以前、水の中に完全に身を浸すという、ユダヤ人が行っていた一般的なきよめの中にも、すでに、“神への個人な立ち返りを証しする”という性質は十分にあったのです。 |
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