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洗礼の定義
T・J・コナントは次のように簡単に述べています。
「洗礼に関するギリシャ語『バプティゼイン』という言葉は、実際の浸礼の行為について述べているだけで、それ以上の意味は含まれていない。」(Connant, T.J. The Meaning and Use of Baptizen. New York: America Bible Union, P.101)
学者たちは、この単語は単純に「浸す」という意味を表し、まさに「全身が水の下に入る」“浸礼”という考えを表しているという見解で一致しています。
W・A・ジャレルは述べています。
「『バプティゾー』という動詞をつくるギリシャ文字は、それが、洪水に飲み込まれる、あるいは船が沈んだ結果、あるいはその他、どのような手段によるものであっても、とにかく水の中、そして水の下に入ってしまうことを指し示している。」(Jarrel, W.A. Baptizo-Dip-Only. Dallas: The Texas Baptist Book House, 1910, P.101)
このギリシャ語の動詞「バプティゾー」が示す、浸礼についての強調点は、浸礼という行為そのものよりも、その結果に置かれています。聖書、あるいは他のギリシャ語の用例を見ると、この動詞は、あらゆる種類の「浸す」という行為に対して用いられています。例えば、美しい染め物の衣類を買おうとする人は、それがどうやって染められたかという方法より、その出来栄えがどうであるかということが重要になります。
洗礼についても同じです。その方法はこうである、いやあれが正しいという論争よりも、受洗者が洗礼を受けた結果、その歩みがみことばに従ったものになっているか、主イエスに浸り切った生活をしているかの方が、はるかに重要な意義をもっているのです。
デイヴィッド・モッカリーは「新約聖書以外の文献では、『バプテスマ』という単語は、洗礼という外面的な行為だけでなく、その内面的な変化と、その行為がもつ力を示している」と述べています。この説明は、洗礼に関する神の御心を適切に表現していると思います。神は常に、外面的な結果に伴う内面的な変化を求めておられます。それはまた、私たちが実際的に主に従順であることを通して、神が内面的な実質さを与えてくださることにつながるのです。
新約時代以前
洗礼は、バプテスマのヨハネが始めたわけではありません。それ以前、何世紀もの間、儀式的なきよめの行為として、ユダヤ人の間で行われてきました。ウィリアム・ランプキンは述べています。「洗礼の前身となる例は、ユダヤ人の宗教行為の中に見いだすことができる。東洋のほかの宗教にも儀式的な沐浴はあるが、ユダヤ教では、この、“水を用いてのきよめ”、あるいは“浸礼”は特別な位置を占めている。」(Lammpkin, William. The History of Immersion, Hashiville: Broadman Press, 1962, P.5)
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