 |
| |
ナチスの強制収容所で着せられていた囚人服のまま、イスラエルにたどり着いた若者たち
第二次世界大戦(1939年―1945年)
この期間のアリヤーは、ナチス・ドイツによって支配されていたヨーロッパからユダヤ人を救い出すことに焦点が置かれました。1939年、国連の依頼でパレスチナを委任統治していたイギリス政府が、現地へのユダヤ人移民を制限するという政策を採りました。これにより、正式なビザを発給されて戻れるユダヤ人はわずかとなり、大部分は、違法な手段で帰還してきました。この違法移民は「B級アリヤー」と呼ばれ、ヨーロッパや中東諸国から、陸伝いに、あるいは海を渡って、イギリスの監視をくぐって帰還してきました。ヨーロッパの国々との接触は絶たれ、しかも戦争の最中、海を渡ることは大きな危険を伴いました。やっとのことでたどり着いた数隻の船も、イギリスの官憲に見つかり、送り返されてしまいました。多くの命が海の藻屑として、あるいはヨーロッパのナチスが作り出した地獄の中で消されてしまいました。
1944年から1948年までの間、66回にわたって船による不法移民が組織された。しかし、イギリスの目をかいくぐってパレスチナにたどり着けたのはわずかである
戦後
当時、東ヨーロッパにいたユダヤ人は、いかなる手段を用いてでもヨーロッパを離れようとしていました。“イシューヴ”(パレスチナ在住のユダヤ人)によって派遣されたスパイ、ユダヤ人バルチザン(ゲリラ隊員)、シオニストの青年運動などが協力して『ベリハ』と呼ばれる救援組織を立て上げ、その結果、約20万人のユダヤ人をヨーロッパから亡命させることに成功しました。彼らの大部分はパレスチナに定住しました。
イギリスが、年間たったの1万8千人しか移民を受け入れないという規制を設けていた中で、違法な移民こそがユダヤ人の最大の手段でした。この数年間に、移民の不法渡航が66回にわたり組織されました。そのうちのほんのわずかな船だけが、イギリスの封鎖をかいくぐって港に入り、人々を無事に上陸させることができました。イギリスは移民を乗せた船を海上で阻止し、キプロス島の難民収容所に収容しました。収容された大部分の人々は、建国後初めて、祖国の土を踏むことができました。1945年から45年の間に、パレスチナに到着した違法移民は約8万人に上ります。イギリスの委任統治期全体からすると、順法・違法を問わず、帰還してきた人々の数は、合計しておよそ48万人です。その90%はヨーロッパからの移民でした。
1981年、エルサレムから投函された一通の手紙。ホロコーストで生き別れた家族の消息をたずねる内容である
建国が宣言された1948年までに、パレスチナのユダヤ人人口は65万人に達していました。
以上、建国直後までのアリヤーの歴史を概略から振り返ってみました。これがすべて、神の預言の実現で起こった出来事です。次号では、イスラエル建国以降のアリヤーについて学び、このテーマへの理解を深めたいと思います。〈次号へ続く〉
|
|
|
|
|
|
|
 |