◆聖霊の原理(聖霊の律法)
復活の後、イエスは、エルサレムにおいて聖霊の来臨を待つようにと、弟子たちに語られました。「全世界に出て行って、福音を宣べ伝えなさい」――このご命令を実行に移すために、弟子たちに必要なことは聖霊を頂くことでした。聖霊こそ、イエスを救い主と信じる彼らの信仰告白を生きたものとし、それに力を与えるお方でした。イエスの死の意味を実感させ、また罪の原理(律法)を打ち破られるのは聖霊なのです。
聖霊のお働きによって私たちは覚醒し、自分が「トーラー」によって示されている神の標準からはるかに離れているという知識を与えられるのです。なぜなら、神は完全であり聖であられることを、神ご自身が教えておられるからです。聖霊の原理(律法)は「トーラー」をないがしろにするものではなく、「トーラー」の教訓を明らかにするものなのです。聖霊は私たちを自分の罪に注目させ、また、救い主によって与えられる恵みに私たちを導いてくださるのです。
◆今日の私たちへの意味
クリスチャンたちは、行いの原理(律法)に傾くという間違いを犯すことなく、モーセの五書に対する自分の態度を再吟味する必要があります。メシアによって与えられている教え、恵みとして、トーラーは私たちの中で調和されなければなりません。メシアにあって、トーラーが定める義はことごとく満たされており、私たちは十字架における救い主の御業に信頼することによって、トーラーが約束する祝福に近づくことができるのです。
ユダヤ的ルーツを理解することは、ユダヤ人の律法主義的な慣習の下に自分の身を置くようにということでも、また、ユダヤ人であるかのように振る舞うようにということでもありません。それは、聖書のみことば全体との間に私たちが深く真実な関係を回復させることができるように、また、私たち一人ひとりの信仰が、歴史の中でのイスラエルとユダヤ人、そして教会との間に正しい関係が築き上げられるような文脈の基に、築かれるための試みなのです。
旧約聖書に与えられている律法が束縛を意味するかのような誤解をしないように、私たちに与えられている詩篇の作者の麗しい表現を熟慮しましょう。
「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。」(詩篇19・7―11)
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