◆行いの原理(行いの律法)
「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」(ローマ3:27)。
ここまで学んだ二つの律法は、神の御手の業です。「トーラー」は石の板に刻まれ、生来の「おきて(律法)」は人々の良心に刻まれています。しかしながら、この「行いの原理(律法)」は人間がひねり出したものです。それは、私たち自身の偶像崇拝的な性質を反映しており、自分の霊的な努力に対して自分自身で大いに誇る、という性質を表しています。この律法がしばしば、トーラーと生来のおきて(律法)の裏に潜んでいることで、神によって備えられた本来の律法が分かりにくくなります。
この行いの原理(律法)は、神から離れて自分自身の義を確立しようとする、人間の故意の努力によるものであり、しかも、神に対して良い印象を与えようとする試みなのです。この原理(律法)を正しく理解するためには、その中心に神への不信仰と自分自身への信仰が潜んでいることを明確に知ることが肝要です。この原理(律法)によって作り出された働きは表面的には正しく見えるでしょうが、その核心も出所も動機も肉的なものなのです。その働きのすべては神の裁きの火によって滅ぼされてしまいます。(
I コリント3:12-15)
◆信仰の原理(信仰の律法)
「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。」(ローマ3:27)
「信仰の原理(律法)」は行いの原理(律法)と明らかに対照的です。行いの原理(律法)はたやすく識別でき、守ることも易しいのですが、信仰の原理(律法)によって私たちはチャレンジを受け、どんなに小さくても私たち自身の信仰を働かせることが必要とされ、また神に対する私たちの完全な献身をも迫られるのです。
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命6:5)
「ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた命令と律法をよく守り行ない、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えなさい。」(ヨシュア22:5)
「そこで、イエスは彼に言われた。『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』。」(マタイ22:37)
「あなたは恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8-9)
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