著/ノエル・サンダーソン(オリーブの樹集会 主幹)
編/BFP編集部
クリスチャンはこれまで、一般的に、律法についてあまり良い印象を抱いてきませんでした。しかし、律法こそ、神のご性質の現れであり、新約聖書の福音の土台を成すものとして認識される必要があります。
先月より、「クリスチャンと旧約聖書の律法との関係は何か」ということをテーマに、ノエル・サンダーソン師(南アフリカ)がメッセージを展開しています。先月は、モーセの律法(より具体的には、旧約聖書の始めの5書を示す)である“トーラー”の性質について学びました。今回は、律法について使徒パウロが何と言っているのか、ローマ書のみことばから解説していきます。
◆生来の「おきて(律法)」
「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。」(ローマ2:14-15)
すべての人間には、心と精神、あるいは良心の中に神が込められた、生来の「おきて(律法)」があります。創造時、神は全人類の“良心という板”、すなわち、私たちが“心”と呼ぶものに、神の律法を受け止める受容力をお与えになりました。しかしながら、この生来の「おきて(律法)」は、私たちが本質的に正しく義であることを行わず、習慣的に罪を犯し、反抗することによって崩されていきました。
神を知り、神が私たちに求めておられることを悟ることができるという、生来の「おきて(律法)」は、偶像崇拝、異教的慣習、霊的な反抗などの堕落によってゆがめられていきました。
このような受容力は、神が全人類の心の奥に書き記された「おきて(律法)」なのです。その核心的部分は、人類の良心に刻み込まれていて、決して消し去れないものなのです。それは傷つき弱っており、破損しているので、メシアによる救いへと導く聖霊の働きを待っているのです。
習慣的に妥協したり、無視したり、押さえ付けたりすることにより、また、すべての聖であり善なるものに対して正反対の価値観や行いを意識的に受け入れることによって、この良心の律法は鈍くなってしまうのです。
この生来の「おきて(律法)」は、「トーラー(モーセの律法)」をまだ受け入れておらず、救い主のことを理解しておらず、それでいて純粋な心をもち、自分たちを造られた神を求めている人々の中に生きて働いているのです。
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