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 トーラーは私たちが神に似た者ではないこと、また少なくとも神のあわれみがなければ、神に似た者となることはできないことを表しています。トーラーが、神はいかに聖なるお方であるかを示しているなら、同時に、私たちがその完全に聖なる状態からいかに程遠いかをも教えていることになります。聖なる者とされなければ、神を見ることはできません。トーラーは、神の完全さと同時に、人間がいかに欠けた、多くの必要を抱えた者たちであるかを表しています。

 トーラーは私を地獄の淵まで導き、神なしの生活がどのように恐ろしい将来へと導くのかを指し示してくれます。私たちに、神以外に選択できる道があるかどうかを自問させるのです。神は私たちに、その道を、救い主を通して発見できることを示してくださいました。その救い主は私の不法、すなわち私の内に「トーラー」をもっていない生活ののろいを取り除き、永遠の命という賜物を与えてくださるのです。

◆「トーラー」は「恵み」と衝突しない
 これは、“枝打ち(余分な枝を落とすこと)”という農夫による訓練です。もし、すべての葉っぱや実を結ばないつるをそのままにしておくなら、栄養が取られ、肝心な実を結ばなくなってしまいます。イスラエルでは、豊かな実を実らせるために、かなり頻繁に枝打ちをします。降水量が少ないため、それをしないと小さくて酸っぱい果実しかならなくなってしまうのです。

 こうした枝は、他の枝の実りを阻むこともあります。ヨハネ伝15章2節には次のようにあります。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」

 「トーラー」と「恵み」は相対するものではありません。もし私たちが神との交わりのすばらしさを十分に理解しようとするなら、その両方が必要です。トーラーと恵みとはそれぞれを補い合います。私たちに与えられた偉大な救いを十分に、また深く味わおうとするなら、その両方が必要です。

 ローマ人への手紙第7章で、パウロは以下のように記述しています。「ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。」(7:12)。またこうも言っています。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。

 しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」(7:14)。パウロはトーラーを軽んじるようにとは、決して教えていません。彼はトーラーを高く評価し、トーラーの中に啓示されている神の聖なる光の中で、自分自身の罪深さを深刻に見据えているのです。しかし、その彼を死の状態から引き上げたのは、救い主の恵みでした。死の状態とは、律法を通して見えてくる彼自身の真の姿です。

 トーラーへの価値観が低いなら、神の恵みの深さを知るための、絶対的基準をもっていないことになります。その結果として、あまりにも多くのクリスチャンが神を恐れない生活をし、十字架の前で献身を表明したとは思えない生活をしています。トーラー(おきて)の介在しない恵みは安っぽいものであり、私たちを無責任な生活へ、無力な証しへと導くのです。恵みのないトーラーは死です。

 トーラーは人間には到底到達できない、神の完全な標準を示しています。私たちが行う何事も、自分自身から出たものであるなら、神との隙間を埋めることはできません。ですから、私たちは「トーラー」のもつ四つの基本的な目的を考慮しなければなりません。

 
 
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