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 パウロはこの「トーラー(律法)」について次のように述べています。

 「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。」(ローマ2:12-13)
 この「トーラー」に関しては、三つの重要な要素があります。

◆「トーラー」は神によって記された
 クリスチャンはこの「トーラー」が石の板に記されたという事実に注目しました。それによって、トーラーが冷たく、装飾もなく、機能的なもので、厳しく裁くための教えであると見なしてきました。そして、これを直ちに主イエスの恵み、あわれみ、優しさと対比するという傾向にありました。

 その結果、トーラーはクリスチャン信仰者の生活には、無関係なものとしてしばしば拒否されてきたのです。悲しいことに、私たちクリスチャンが注目したのは、石の板という側面であり、別の側面である神ご自身の御手が、これを書かれたということには注目しませんでした。

 パウロは記しました。

 「私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

 ……もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。」(IIコリント3:2-3、3:7-8)

 私たちは神がお書きになり、そして新約聖書自身が「栄光ある」ものだとする律法の教えに、重きを置かなくてよいのでしょうか。もしそうするならば、私たち自身がそれによって貧しくなり、また一部のユダヤ人からは、聖書の根本を理解していないと言われることにもなるでしょう。拡大解釈をするなら、律法の否定は、神ご自身の拒否につながりかねません。

◆「トーラー」は神の義を表している
「トーラー」の中には、神ご自身のご性質、御心が啓示されています。問題は「神がどれほど義であられるか」という点です。神はどれほど聖なるお方であり、義なるお方であるかを議論するために、多くの時間を費やすこともできるでしょう。私たちは神が罪もなく、妥協もされず、すべての面で完全であられることを知っています。

 肝心なことは、聖であられることに関して、神は私たちよりも抜きんでておられ、すべての面で私たちをはるかに超えておられるということです。もし神のご臨在の中で、栄光に満ちた御座の前で永遠の時を過ごしたいと願っているなら、私たちは神に似た者とされなければなりません。

 
 
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