さて、この農夫は良いブドウの木を植え、良い実がなるのを期待していました。しかしながら、良い産地から持ってきたブドウの木が、別の土地で同じように良い実を実らせるわけではないことは自然の摂理です。興味深いことに、酸っぱいブドウの木も、よく耕して、余分な枝を落として守ることで、だんだん甘い実がなるようになります。これは、愛情をもって育てたことの結果です。
この聖書箇所では、農夫がブドウの木のためにできる限りの世話をしたと書かれています。しかし、彼は次のように嘆いています。「わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。」(4節)
ここで何が起こっているのか、皆様はお分かりですか?
ブドウの木が栽培種であろうが野生種であろうが、手塩にかけて育てることによって、甘い実を結ぶようになる、ということです。しかしながら、農夫が一生懸命育てたにもかかわらず、このブドウの木は、まるで手入れされていないブドウの木のような、酸っぱい実を実らせました。
同じように、私たちも自由意志をもつ存在として、たとえ神が愛をもってお取り扱いくださり、守ってくださっても、それに応えず、甘い実を実らせるには至らないことがあります。
この農夫は恐らく失望し、いら立ち、実を実らせないブドウの木に対して怒ったことでしょう。このブドウの木に対して農夫が行った罰とは、一体何だったのでしょう。ブドウ園は放置され無法地帯となり、野生の獣がそれを食べ、踏み荒らされるようになりました。
言い換えれば、もしブドウの木が変化を望まず、野生の状態であり続けることを選ぶなら、酸っぱい実を実らせ続けるだけになるということです。農夫がこのブドウに与えた罰とは、“あなたのやりたいようにしなさい”というものでした。
◆時に神の答えは、“あなたのやりたいようにしなさい”
聖書の中で、実はこれは、何度も取り上げられているテーマです。神の答えは時々、“あなたのやりたいようにしなさい”なのです。イスラエルの民のことを思い出してください。エジプトを出た後、神はこの民のすべての必要を満たして守られました。
しかし、ヨシュアとカレブが、約束の地へ進んでいこうと民を説得したのに対し、民はそれを拒絶しました。彼らは、ヨシュアやカレブの言葉よりも、約束の地を偵察してきたスパイたちの、「恐ろしい敵であふれている」という人間的な報告を聞き、そちらの方を信頼したのです(民数記14章)。結果として、彼らは神の命令に従わず、土地に入らなかったため、40年間にわたって荒野で放浪し、その世代は荒野で死んでいきました。約束の地に入ることができたのは彼らの子孫、新しい世代でした。
神は、荒野でイスラエルの民を養うために、“マナ”と“ウズラ”を与えられました。“マナ”という言葉を表すヘブライ語は、アルファベットの“メム”“ヌン”の2文字で記されています。この正確な意味は不明ですが、恐らく“これは一体なんだろう”という意味が込められているということです。砂漠での放浪中、いまだかつて経験したことのなかったものに対する、驚きの思いを表しています。
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