エレミヤ書49章9節では、盗賊が夜ブドウ畑を襲い、すべてを荒らしてしまう様子が記されています。さらに、ブドウ園にとって、もう一つの脅威はヤギの群れでした。ヤギは石垣のないブドウ園に入っていって、実、葉、ツルと、すべてを食べ尽くしてしまいます。これは今日も起こることです。
それゆえに、聖書時代以来、石垣の上に、さらに乾燥したイバラが巡らされました。原始的な鉄条網です。イバラがある限り、キツネなどは針が刺さるのを用心して、中に入って来ません。もう一つの策として、農夫は自分と家族が住む住居を畑の中心部に高く造り、見張り台としました。ブドウが実る気候である、温かく乾燥した時期には、農夫一家はこの住居に住み、作物を守りました。
◆ブドウ畑はどのようにして応えるのか
イザヤ書5章には、甘い実を結ばず、酸っぱい実が実ったというブドウ畑が出てきます。農夫はこれを役に立たないものとして放置し、生垣を取り除きます。ブドウは自然の摂理にさらされます。動物が園に入って来、ブドウを食い荒らします。余分な枝を切り落とすことも、地面を耕すこともされません。農夫はそのブドウ園を、守りや配慮もなしに放置してしまったので、結果的に園は荒廃してしまいます。
これは私たちとどんな関係があるのでしょうか。もし私たちがブドウの木であるとして、ただ酸っぱい実を主の前に実らせ、自分たちの欲しいままに生長するとしたら、その末路はいかなるものでしょう。イザヤ書5章にあるブドウ畑のように、将来主が私たちをどうされるのか、また守っていただけるのかどうか予測がつかない、不確かな状態に陥るでしょう。
世の多くの人々は不平不満を言いながら、自分たちのしたいことをしていますが、その結末は絶望的です。神が御手を取り去られ、私たちが神の保護から離れてしまうとき、周囲の世界から一気に影響を受けます。こうして主からますます引き離され、そして滅びてしまうのです。
「信仰生活を成功させるためには、“良いブドウの木”として歩み出す必要がある」と考えていらっしゃる方はいないでしょうか。それは真実ではありません。神の御国に入るために、自分たちが完全な者、つまり“甘い実を結ぶブドウの木”である必要はないのです。もし私たちが主の前に“酸っぱいブドウの木”であったとしても、神が私たちを養ってくださり、世話をしてくださる限り、最終的に私たちが甘い実を実らせることができるようにしてくださいます。
ブドウの木が実際に大きくなるまでは、それがどんな実を実らせるのか判断がつきません。耕された土地に植えられた栽培種のブドウの木と、野生に育ったブドウの木の間に、品種的な違いはありません。イザヤ書5章2節に、ブドウ園の農夫が、自分の畑に“良いブドウ”の木を植えた、とあります。ここで出てくる良いブドウとは、ソレクの谷を原産とする品種です。ソレクの谷はエルサレムの西にあり、そこのブドウ園は最高のワインを産出するすばらしい畑として知られています。
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