ルカ伝23章27節から28節には、こう記されています。
「大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。『エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。』」
そしてヨハネは、こう記しています。「そこでピラトは彼らに言った。『あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。』
ユダヤ人たちは彼に言った。『私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。』
これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。」(ヨハネ18:31-32)……「ユダヤ人たちは彼に答えた。『私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。』」(ヨハネ19:7)。
イエスが復活された後、ヨハネはこう記しています。「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。『平安があなたがたにあるように。』」(ヨハネ20:19)。
◆これらの言葉をそれぞれ見ていきましょう。
■「群衆」
“群衆”を意味する言葉は、ギリシャ語の“オクロス”で、複数形です。ギリシャ語の“群衆”である「オクロス」ですが、当時イスラエルで使われていたアラム語には、これに該当する言葉がありませんでした。ヘブライ語では「オクリーム」という言葉で、「すぐそばにいる人々」「近くにいる人々」を表しました。
集団の人数とは関係なく、むしろ、距離感を表しています。福音書には、イエスが十二弟子に語られる場面がありますが、その後「群衆の方を向いて」という表現が出てきます。これは、イエスが群衆の前で十二弟子と私的な会話をされたのではなく、近くにいた別の人々と話をされた、ということです。
ミシュナーに出てくるあるラビは、通常10人の弟子たちに向かって話しますが、この弟子たちは「オクリーム」の言葉で呼ばれ、たくさんの群衆ではなく、周りにいた人々を指します。
それゆえ、ピラトの官邸の中庭で、「十字架に付けろ」と叫んでいたのは、いわゆる「群衆」でも、大勢の人々でもなく、間近で見ていた、サンヘドリンに属する23人のサドカイ派の司祭たち、また、何が起こっているのか、単なる好奇心で足を踏み入れた見物人たちでした。祭司たちは、イエスが宮で両替商たちを追い出したことに腹を立てていたので、ここぞとばかり復讐をしたのです。 |