しかしヘロデは、自分がガリラヤで支配者であり続けるために、ガリラヤのユダヤ人の間で人気の高かったイエスに、自分が手を掛けて処刑することは得策ではないと考え、ピラトが手を汚してくれることを願い、イエスを彼の下に送り返しました。
「この日、ヘロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対していたのである。」(ルカ23:12)。これはルカ伝の謎めいた表現ですが、こうして見ると、なぜそうなったかがよく分かります。ここに、イエスを殺害せんとする、二人の人物によるローマの陰謀が見え隠れしています。
最終的に手を下したのはピラトでしたが、ヘロデとサンヘドリンに、毎回自分が手を汚すことを期待させたくはありませんでした。そこで皆がかかわって決定したことにし、自分の立場が悪くならないよう状況を操作し、注意深く巧みに演出を施しました。
「あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。」(ルカ23:4、22)と宣言し、罪人バラバを引き出すことで、あたかも自分はイエスに好意的であるかのように見せ掛けました。彼は、サンヘドリンによって買収された群集が、何と応答するかを知っていました(ルカ
23:13)。
民衆が「バラバを!」と叫んだ時、ピラトは非常に劇的に、「……群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。『この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。』」(マタイ27:24)という行動をとりました。この十字架刑の責任は、ユダヤ人の指導者たちが取るべきだという演出です。
ピラトがイエスに対して同情的に見えるのは、ローマからの攻撃を防ぐために、福音書の記者たちが、注意深く言葉を選んで表現した結果です。福音書が成立した時代、キリスト教はまだ、ローマで非公認でした。それゆえ、ローマ帝国とローマ人に対して、気を遣う表現にとどめるしかありませんでした。
もしピラトが本気でイエスを釈放する気があれば、ローマの執政官としての権限でそうすることができたはずです。ピラトはイエスに大変な痛みと苦しみを与えました。動物の骨や鉄のトゲがついた皮のムチで、背中の肉がむけるほどに打たせました。イエスはその痛みのために、十字架を担ぐことができませんでした。鋭いとげが付いたイバラの冠をイエスの頭部に押し付け、背には王の衣を着せてあざけりました。そして無残な十字架刑に処しました。
◆言語学的な誤解
みことばに含まれている単語が正しく理解されないことも、ユダヤ人に対する誤解を生む原因となりました。
マタイ27章24節から25節には、次のようにあります。「そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。『この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。』
すると、民衆はみな答えて言った。『その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。』」 |