この四つは、何を意味しているのでしょうか。
上着を与える。これは、長い衣で腰ひもを締めて着るものでした。サンダルは息子としての地位の象徴でした。召使たちはこれらの着用を許されていませんでした。息子にのみ与えられるものだったのです。
また、父親は息子の手に指輪をはめさせました。指輪は当時のクレジット・カードのようなものでした。指輪があれば、息子は町へ行って、商人たちから自由に品物を買うことができました。ただ、買い物の記録が書かれた粘土板の上に、その指輪を押し付けて印を残せばよかったのです。あとで父親がその清算を行いました。
考えてみてください。この若者は、ただの使用人となるべく父の下に戻りました。しかし父親は何も言わず、彼を息子の地位に戻しました。息子は一度父にひどいことをして、その財産を浪費したのです。しかし父はただただ、息子に信頼の情を表し続けたのです。
これこそ、罪を告白し、赦しを請い続ける私たちに対して、神がとられる行動の縮図です。
最後に、父親は太った子牛をほふり、町中の人々を招いて祝宴を開きました。若者は父親だけでなく、地域社会とも和解を行う必要があったのです。これは単なる夕食会ではありません。家族だけでなく、この宴会に出席したすべての人々と若者との間に、完全な和解がなされたのです。聖書では、敵同士が共に食事をすることは“契約の食事”として、和解を意味するものでした。ですから、祝宴に出席すること、それは「この息子を赦し、受け入れる」という意思表示そのものでした。
息子を立ち直らせるために父親が取った数々の行動には、単なる言葉以上の意味がありました。父親は自らの言葉を実行することで、息子の反逆の罪を赦し、問題が解決したことを公に示したのです。
興味深いことに、この放蕩息子の物語は、当時のラビもよく例え話として使っていました。ラビの話では、父親は戻ってきた放蕩息子を召使として取り扱い、自分の行いに対する報いを刈り取らせるという結末になっているため、情け深い父の側面は見えてきません。ですから、イエスが語られた例えは、人々にとって新しい放蕩息子物語だったのです。ここで表されている父親像は情け深く、完全な赦しを与える人物です。まさに、関係を取り戻そうと私たちに手を伸ばしてくださる愛のお方、父なる神のご性質そのものです。
◆兄
兄である息子は、パリサイ人を表しています。イエスは彼らの“この人は収税人や罪人たちと付き合っている”というつぶやきを耳にし、この例え話を通して、罪人を救う神の愛を語るとともに、彼らの高慢と自己義認、失われた魂の救いに無関心な心の状態を取り上げたのです。
兄は畑に出ていました。家に戻ると、音楽が聞こえ、人々がダンスをしていました。召使の一人が彼に何が起こっているのかを告げました。「お喜びください、あなたの弟さんが家に戻ってこられました、だんな様はこれを祝って、牛を一頭ほふられました。」と。 |