2組のカーテンがトゥ・シェイレットの青の輪留めで組み合わせられるように、私たちもまた、主が祈られた通り(ヨハネ17:11、21)、ただイエスの義によって、真の意味で一つとなることができます。聖霊による心の刷新によって、神の似姿に変えられていきます。そして、ユダヤ人と異邦人の間に、夫と妻の間に、人とその隣人の間に、「真の一体」が訪れます。神によって変えられることで、私たちは父なるお方の似姿を映し出し、命の水が流れ出るようになります。そう、神にある私たち自身の中にこそ、詩篇23篇の「いこいの水のほとり」―安らかな場所があり、この中に癒やしと、真のシャローム(平安)、あるいは完全さが見い出されるのです。
ある土曜日の夕方、教会の礼拝で(イスラエルでは土曜日が聖日なため、この日に礼拝を行う教会が多い)、夫と私は「新しい一人の人」というテーマでメッセージを語りました。この中で、この「トゥ・シェイレット」に関する考えを語りました。私たちの親しい兄弟であり、その教会の長老でもある一人の友人は、私のメッセージを聞いて、この輪留めがどう働くか、幕屋のモデルを実際に作り、あとで私に見せてくれました。彼は、この部品がどういうものか、どのように作用して、布同士を固定して幕屋が出来上がるのかを理解したかったのです。私に説明しながら、彼の表情は興奮で輝いていました。説明が終わると、それまでまっすぐに並んで2組のカーテンをしっかりと固定していた1列の輪留めが、一気に崩れ落ちました。その落下地点こそ、「至聖所」(神の箱が安置され、神の臨在が宿る、幕屋の中でも最も聖なる場所。大祭司だけが入ることができた)と通常の聖所に二分していたカーテンがある所だったのです。そうです! このカーテンは、神と人の間に介在してくださるイエス・キリストを表しています。イエスが十字架上で息を引き取られたとき、神殿の中のこのカーテンが、音を立てて真っ二つに裂けました(マタイ27:51、他)。神と人との間にあった垣根はイエス・キリストのあがないによって取り除かれたのです。
私たちは、ただ一人の大祭司であるイエス・キリストと一つになることによって、父なる神が臨在される聖所へと入っていくことができます。その時主は、私たちをご自身の義によって飾られたマントで覆ってくださいます。こうして私たちは、恐れなく神とお会いし、聖霊を通してこの方を「アバ、お父さん!!」と呼ぶことができるのです。
◆チャレンジ
初めであり終わりであり、最も高きお方であるこの神の子どもたちとして、「いのちの川から水を飲むこと」「みことばに心を満たされること」「神の霊によって強められること」、これらは私たちの受けるチャレンジです。私たちの中に、神によって義とされる場所(聖所)、が築かれる時――つまり、新しい創造が成される時、私たちは互いに触れ合い、愛によって結ばれ、完全に一体となることができます。そしてここに、神の御体である、生ける聖所が完成されます。「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(詩篇133:3)。私たちは、神によって定められた時に従って1年を歩む(ユダヤ暦を守って生活する、という意味ではなく、折々にみことばを覚える)――つまり神の義の道を歩み、御手の中で建て上げられる中で、個人的生活においても、他の人々との関係においても、教会の中でも、社会の中でも、神の生ける聖所の修復と建て上げの業に加わることができます。このようにして、私たちは希望を増し加えられ、喜びをもって、“祝福あれ、主の御名によって来られる方に!”とそのお方に叫ぶことができる、栄光ある日を待ち望むことができるのです。アーメン。 |