また、パレスチナの有力なリーダーの一人、アル=ファイサル・フセイニは、暗殺される10カ月前の2001年8月、エジプトの新聞『アル・アラビ』紙に対し、「オスロ協定はわれわれにとってのトロイの木馬だ。われわれの最終的な目的は、占領下に置かれている残りの地を、河から海に至るまで(ヨルダン川から地中海、つまりイスラエル全土)を解放することである。」とコメントしています。
パレスチナ側の究極的な目標はイスラエルとの共存ではなく、あくまでもパレスチナ一国が独立し、ユダヤ人を追い出すことです。イスラエルとの平和をうたうオスロ協定は、その目的を段階的に達成していく過程での隠れみのにすぎなかったのです。パレスチナ側に、イスラエルとの真の平和を望む協力者が存在しなかったため、オスロ協定は実現しませんでした。
●キャンプ・デービッドでの拒絶
オスロ協定がうまくいかなかった理由は、パレスチナ首脳部が、平和ではなく、イスラエルと戦うことを選んだことにあります。この協定が始まった時点から、イスラエルの受ける利益は少なく、逆にパレスチナの受ける分は大きい、という不平等が存在していました。2000年7月に行われたキャンプ・デービッド会談でのこと、当時のイスラエル首相エフード・バラクは、驚くべき提案をパレスチナに示しました。彼は「パレスチナの建国、そして二つの国家としてイスラエルと共存していくこと」を認める段階にまで話を飛躍させ、次の五つの条件を提示しました。
1. 1967年の6日戦争に勝利したイスラエルが占領した地域――ユダ、サマリヤのヨルダン西岸、
およびガザの95%と、イスラエルの国土の5%とエルサレムの旧市街の4分の3を譲る。
3. 東エルサレムの5つの地域を譲渡する。
4. エル・アクサ寺院にパレスチナの国旗を掲げることを認める。
5. 旧市街から目と鼻の先であるアブ・ディスに、パレスチナの国会議事堂を造ることを認める。
この、信じられないほどの譲歩案に対し、アラファト議長は何も言わずに交渉の場から歩み去るという応答を示しました。その2カ月後、今日まで続くインティファーダ(パレスチナの武装蜂起)が始まったのです。こうして残念なことに、アラファト議長の盲目的な決定によって、パレスチナ人とイスラエル人が平和に共存していく機会は失われました。
来月は戦略的・預言的見地から、今回の続きを学びます。これをとおして、クリスチャンと現代イスラエル国家の具体的なかかわりが明確にされるよう願っております。
エルサレムからシャローム |