独立戦争時、アラブ世界の指示に従ってイスラエルを離れたパレスチナ系アラブ人の数は、アラブ諸国を追われてイスラエルへとやって来たユダヤ人の数と同数です。アラブ諸国に住んでいたユダヤ人は、家屋や土地、仕事や財産など、すべて置き去ることを余儀なくされました。ユダヤ人が離散先のアラブ諸国に残してきた土地の総面積は、今日のイスラエル国家の国土よりももっと広い面積であったことが算出されています。こうした中東のアラブ諸国出身のユダヤ人は、さかのぼればバビロン、アッシリアの捕囚時代から定住してきた人々です。
私自身が実際この目で見てきましたが、イスラエルは、国内のアラブ人に敬意を払っています。1990年代、あの『オスロ協定』が締結されるまでは、イスラエル国家は世界に散ったパレスチナ難民に対して最大の援助国でした。他のどの裕福なアラブ諸国も、パレスチナ難民に対して何も貢献していませんでした。
PLO(パレスチナ解放機構)
パレスチナ難民を代表する組織として、当時のエジプト大統領ナセルが提唱し、1964年に設立。「イスラエルの完全破壊」が目標として掲げられ、武装集団としての要素が強かった。これに各アラブ諸国の思惑が入り交じり、内部は非常に複雑化していた。アラファトは67年に入団、69年に議長に就任。ヨルダンに拠点を移してテロ活動を行うが70年に追放され、レバノンへ落ち延び、シリアの軍事援助を受けて、イスラエルに対するゲリラ活動やレバノン南部の市民への暴行を行った。このため82年にイスラエルが軍事介入、アラファト議長は同年にチュニジアへ追放される。90年代からは軍事組織としてのイメージ払拭のため、イスラエルとの和平路線に乗り出す。93年にオスロ合意によって、PLOによるパレスチナ暫定自治がイスラエルとの合意の下に成立。アラファト議長は94年にノーベル平和賞受賞。2000年に始まったインティファーダにより、イスラエルとの関係が再び悪化した。
●オスロ神話崩壊
イスラエルは、シモン・ペレスが掲げた「新中東構想」に沿って、『オスロ協定』を率先して進めていきました。オスロ協定は、イスラエルとパレスチナという二つの国が、お互いに国境を開放して自由に行き来し、水、経済、政治、治安、観光、商業などの分野で協力し合っていくことでした。イスラエルが行ったのは、パレスチナ人が自衛して地域の平和を保てるようにと、PLOのヤセル・アラファトと彼の率いる5万人のPLO活動家に対し、武器を提供しました。しかし結果的に、ユダヤ人を滅ぼすために戦争を起こそうとする軍隊を、五つも生み出してしまいました。
アラファトにはもとより、イスラエルとの和平を確立する意志はありませんでした。事実、和平が締結されたその日に、「これは一時的な休戦であり、十分な力を蓄えたとき、彼らを滅ぼす。」という宣言を、イスラム教徒なら誰でも分かる隠語で行っています。オスロよりずっと以前のヨム・キプール戦争でアラブ側が敗北を喫した後、1974年に開かれたアラブ連合の会議で、イスラエルをいかに滅ぼすかのシナリオがつくられました。アラファトはこのシナリオを基に、独自の「段階的イスラエル破壊プログラム」をつくりました。
パレスチナの活動家の一人、サフール・ハバシュは次のように発言しています。「われわれが新パレスチナ国家の独立を宣言するとき、(イスラエルに)占領された残りの地を解放する権利を有するであろう。」
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