詩篇19篇7〜11節には、次のように記されています。
「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。」
イスラエルの民にとって、律法は大いなる解放を与えるものでした。それゆえに彼らはその授与を祝うのです。
ユダヤ人は律法の授与という出来事を、シャブオットだけではなく、秋の仮庵の祭りの期間中にも祝います。これは「シムハット・トーラー」と呼ばれる祭りであり「律法の喜び」という意味があります。ユダヤ人は1年かけて聖書を通読しますが、この「シムハット・トーラー」の日にそれが完了します。人々は聖書の巻物を携えてシナゴーグから外に出て、そして巻物を高く持ち上げて近隣の通りを練り歩きます。人々は喜び歌い、聖書が彼らの人生の中心であることを宣言しながら、巻物の後をついて歩きます。皆様の教会でも、ペンテコステの日に、聖書と聖霊が与えられたことを同じような形で祝い、外に出て「私と私の家は、主に仕えます!」(ヨシュア24:15)と宣言することができたら、どんなにすばらしい祝福となることでしょう!
マーサ・ズィマーマンはそのすばらしい著作『例祭を祝う』で次のように述べています。
「ペンテコステは、律法に込められた神のメッセージを思い起こす時である。『すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは主が仰せられたことを、みな行ないます。」』(出エジプト19:8)。ユダヤ教のラビたちは『神の聖なる律法と自己鍛錬がなければ、そこに自由はない』と言う。電車が走るには線路が必要である。川が流れるにはそこに岸がなくてはならない。主イエスは『あなたの好きなところへ行って、好きなことをしなさい』とは言われなかった。彼はこう言われた。『それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。』(マタイ28:19-20)。主イエスはマタイの福音書5章17節でこうも言われている。『わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。』」
ズィマーマンは、続いて次のことを指摘しています。
「主イエスはメシアとして、人間を律法のくびきから解放するために来られた。これは、誰一人として、己の力では律法を完全に守り切ることはできないからである。神の子羊は、律法を破ったがために受ける罰から人間を救い出し、代わりにその罰をご自分でお受けになるために来られた。しかし、私たち人間は『自由になるために、自由にされた』。メシアは、私たちを古い性質と行動から解放し、『神に自由に従うことができるように』解放されたのである。私たちは自分を喜ばせるためにではなく、神を喜ばせるために自由になったのである。これこそ、私たちの人生に働かれる聖霊の御業である。」
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