ルカ20章19節に書かれていることは明らかです。「律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちを指してこのたとえを話されたと気付いたので、この際イエスに手をかけて捕えようとしたが、やはり民衆を恐れた。」
ヘロデ派のサドカイ人たちは、イエスが彼らを指してたとえを語っていることを理解しました。そうです。このたとえは、ユダヤ人と全イスラエルを指していたのではなく、当時の腐敗した宗教指導者たちに向けられたものだったのです。 歴史の中で、悪い農夫たちは、神に拒絶されたユダヤ人に当てはめられ、そしてブドウ園は「真のイスラエル(クリスチャン)」に移されたと解釈されました。しかしこのたとえで、本当に焦点となるべきだったのは「一人息子」でした。イエスは旧約聖書の箇所を引用するという、ユダヤ人たちがよく使っていた方法で、このたとえ話をイザヤ書5章1-7節をもとに語られました。救世主の到来が特に待ち望まれた1世紀、イザヤ書が頻繁に読まれていました。イザヤ書5章7節には「まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」とあります。
書かれているとおり読むなら、「ブドウ畑はイスラエルの家」です。しかしイエスはここで、ブドウ園についてではなく、そこを管理する農夫たちに焦点を当てておられました。イエスは、ブドウ園(イスラエルの国)の管理を任された農夫たち(宗教指導者)が、地主(神)の一人息子(メシア)を拒絶し、神のひとり子を殺すことによって受ける裁きについて警告されていたのです。
◆「捨てられた石」
ブドウ園のたとえに続いて、イエスは詩篇118篇23-22節のみことばを引用して、「家を建てる者たちが見捨てた石」について言及しておられます(ルカ20:17-18)。神が送られた一人息子は、人々から拒絶されました。この息子こそが、建てる者たちが捨てた石、すなわちご自分であるというのです。「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。」(詩篇118:22-23)。ここで主は、ご自分が何者で、これから何が起こるかを預言的に語っておられたのです。詩篇118篇は、過越祭で歌われる歌です。多分イエスと弟子たちも過越の食事の後、ゲッセマネの園へ出かけていく前にこの箇所を歌ったことでしょう。
イエスの時代、この捨てられた石とは何を指すと理解されていたでしょう。ユダヤ人は、この石をダビデ王に当てはめて理解していました。ダビデは彼のハンサムな兄たちの中で、最も小さな者でした。神が介入されるまで、彼の父親や預言者サムエルでさえ、ダビデを無視していました。最も小さな者で、捨てられた石であったダビデを、神はイスラエルで最も偉大な王とされたのです。
さらに、捨てられた石は、ダビデの家系からやがて起こされるメシアを指していました。ですからイエスは巧みなユダヤ的言い回しで、彼ご自身こそが、ダビデの子、メシアであるとおっしゃいました。ちょうどイスラエルの民衆も、彼をこの呼び名で呼んだ後でした(マタイ21:15)。メシアは拒絶され捨てられる定めでしたが、その後死に打ち勝ち勝利されたのです。「この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」(ルカ20:18)。どのみち、石が勝ちます。
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