これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません。」と言った。イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」(ルカ20:9-18)
◆みことばの曲解とその波紋
この「悪い農夫」のたとえは、地主(神)の息子(キリスト)を殺した、悪い農夫(全ユダヤ民族)についての教えとして解釈されてきました。この解釈に従って、イスラエルを聖書の祝福から排除する考えが広まりました。
ところで、本当にこれが教会とイスラエルの関係、そしてイスラエルに与えられた契約について、新約聖書が語っていることなのでしょうか。私はそうは思いません。異邦人の教会について新約聖書には、私たちが「接ぎ木され」(ローマ11:17)、「キリストの血によって近い者とされ」(エペソ2:13)、「(信仰による)アブラハムの相続人」(ローマ4:16)とされ、イスラエルと「共に受ける」(ローマ11:17)「もらい物をした」(ローマ15:27)と書かれています。われわれ異邦人の教会は、神がイスラエルに与えられた恵みに加えられたものであり、神はイスラエルに対する契約を破棄してはおられません。(ローマ11:29)
◆たとえの背景
このたとえを、反ユダヤ主義を生み出した偏見や先入観からではなく、イエスが活動されていた当時の歴史的、文化的、そして政治的文脈から検証する必要があります。そうしない限り、本当の意味が見てこないからです。
それは過越祭の間の出来事で、イエスは一般の教師がするように、神殿の敷地内で人々を教えておられました。そのとき、祭司長、律法学者、長老たちが彼に向かって「あなたはどのような権威によって教えるのか」と尋ねました。イエスは逆に、人々が預言者と信じ尊敬する、バプテスマのヨハネについて質問されました。祭司たちは、人々から石で打たれるのを恐れて、返答を拒絶しました。ヨハネが民衆から尊敬されていた預言者だったからです(ルカ20:1-8)。この祭司たちとの対決場面で、イエスはあのたとえを話し始められました。
◆祭司たちの脅威
イエスは祭司長、律法学者、長老たちに対して、このたとえを話されました。たとえを用いることは、ユダヤ的なスタイルです。たとえは生活に密着した生きたドラマであり、ユニークな形で人々の心に働きます。それは単なる寓話ではなく、教えの要点を具体的に表現するために用いられます。たとえの目的、機能、メッセージは、語り手とその話の背景によって決定されます。語り手や背景を変えてしまうなら、その意味も変わってしまいます。
マタイ、マルコ、そしてルカの福音書は、このたとえが過越祭の間に、神殿の丘で語られたという点で一致しています。そこから、神殿関係を司っていたヘロデ王朝の宮廷祭司たちと、イエスの間にあつれきが読み取れます。王家付き祭司だったサドカイ派にとって、民衆に人気のあったイエスは、彼らの権威を脅かす存在でした。祭司カヤパは、ローマ政府に金を支払って得た権力により、聖域を支配していました。
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