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 自分を正しいとみなすことは誰もできません。イザヤは 「私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」 (イザヤ64:6) と言っています。私たちは皆、自分の罪を認め、それを放棄し、十字架の贖いの御業を信仰によって受け入れることをとおしてのみ、自らの義を得、正しい者とされるのです。正いことを成したゆえ、正しい者とされるのではありません。「神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」 (第2コリ5:20-21)

←パリサイ派の教えは、現代のユダヤ教に引き継がれている。

◆信仰と行いを一致させる
 一方ヤコブは次のように指摘しています。「信仰も、もし行ないがなかったら、それだけでは、死んだものです。」 (ヤコブ2:17)、「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」 (ヤコブ1:22)。これは相対することを言っているのではありません。もし心の中に本物の信仰をもち、神と親密な関係をもつなら、クリスチャンは人生に豊かな実を結ぶであろう、と宣言しているのです。パウロはガラテヤの教会にこう書き送っています。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」 (ガラテヤ5:22-25)

 信仰の歩みが、主とともにあるものとして完全に現されるには、まだまだ遠く及ばないことを私は知っています。それは一生かかってたどる過程なのです。このメッセージを書いている間も、主イエスのパリサイ人に対する言葉が、私の心に鋭く突き刺さりました。自分がまだ発展途上の者であって、自らの心や動機の中にあるプライド、自己正当化、偽善性といった要素について、日々吟味しなければならないことを、この学びをとおしてもう一度悟らされました。他人を指さしてその罪を挙げ連ねるのはたやすいことですが、自分自身についてはなかなか見えにくいものです。主イエスだけ、自ら一度も罪を犯したことがないこのお方だけが、パリサイ人を、あるいは他の誰かを裁くことができるのです。自分だけが正しい者であるかのように他人を裁くのではなく、むしろ常に自分自身の生き方を正していく責任が、私たちに委ねられています。イエスのパリサイ人へのメッセージは、クリスチャン自身が自分の心と生き方を義の鏡に映して、真剣に襟を正すべき箇所なのです。私たちの言葉と行いをとおして神の義が輝きいでるよう、それぞれ個人的な 「霊的ハウスクリーニング」 に着手しようではありませんか。

 エルサレムからシャローム

 
 
 
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