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 イエスがパリサイ人に対してあれほど怒りと苦悩を表されたのは、彼らが正しい教えをもっていながら、道を踏み誤っていたためだと一部の神学者は信じています。彼らは神の真理に近づいていたにもかかわらず、的外れであったため、イエスをひどく憤らせたのです。主は心の底から、ご自分の民イスラエルが彼の下に来る姿を見たいと切望しておられました。しかし、当のイスラエルの民は、メシアを待ち望んでいながら、律法を完成された方、「ことばが人となった」 このお方を、主と認め損ねてしまったのです。

 この、非常に辛らつな表現で書かれたマタイ伝23章の結びで、イエスはオリーブ山の上から次のように叫んでおられます。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」(マタイ23:37)。主は、こうしてご自分の民への愛とあわれみを示しておられたのです。

◆己を捨て、神の義を着る
 イエスはパリサイ人や同胞のユダヤ人を、決して拒絶されませんでした。むしろ、神と正しい関係をもち、心の刷新を得なさいというメッセージを伝えようとしておられたのです。頭の知識と宗教的義務から律法を守るのではなく、心の刷新により、神への愛によってみことばを自然に実践していくだろう、と語っておられたのです。それは行いによるのではなく、信仰による実践です (エペソ2:8-9)。パリサイ人と同様、私たちも、神と個人的な関係を結ぶことがなければ、どんなに努力しようとも、律法主義に陥り、神の栄光を現すことはできません。これは、この聖書箇所から得られる、最も重要なポイントです。

 これらのみことばを、自分と無関係な他人―この場合、律法学者とパリサイ人―を責める言葉として読むのをやめましょう。そして、私たちとの関係について、主が疑問を投げ掛けていらっしゃる言葉として考えてみましょう。

 鏡の中の自分を見てみましょう。自分の中に、律法学者やパリサイ人と同じ欠点が全くないと言えるでしょうか。自分自身の中からすべてのプライドと、自己中心を除去できているでしょうか。神のみことばを、宗教的な義務感から守っていないでしょうか。主との親密な個人的関係をもっていることの証しとして、また、主と他の人々への愛を表すものとして、みことばを自然に守ることができているでしょうか。他人には口で説教をしながら、自分ではぼろを出しているようなことはないでしょうか。その歩みの中で、偽善的になっていることがないと言えるでしょうか。

 私たちは、ただ外面的に神の義を身にまとうことはできません。それは神と個人的に交わることによって、私たちの心から生まれるものです。「それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。……それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。」 (ローマ3:22-24、27)

 
 
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