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イエスは人々に 「彼ら (律法学者とパリサイ人) があなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。」
(マタイ23:3) と、モーセの座を占めるパリサイ人が、真理のみことばについて語る、正当な権威を認めています。しかしパリサイ人は、伝統的な口伝律法を軽減したり、聖書のみことばと妥協させたりはしませんでした。口伝律法として人間的に作り出されたおきては、さして重要でないにもかかわらず、多岐にわたり、綿密に作られていました。結果として、守るのがあまりにも難しいため、これらのおきては、人々にとって不必要な重荷となりました
(マタイ23:4)。パリサイ人は、伝承や言い伝えを神のみことばと同列化、いやそれ以上としたことにより、自らを
「目の見えない人を導く、目の見えない教師」 にしてしまったのです(マタイ15:14、23:16、17、19、24、26)。
パリサイ派は全体として、外面的なことにこだわりました。したがって、律法に込められている、より重要な部分を無視ることになり
(マタイ23・23)、みことばのもつ中心的な意味を変えてしまうことになったのです。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」
(Tサム16・7)。イエスは彼らに対して 「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」
(マルコ7・6─7、イザヤ29・13) と、イザヤ書のみことばを引用しています。外面的な体裁を強調しても、心が伴っていなければ、「杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱい」
であり、また 「その外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいな白く塗った墓のようなものです。」
(マタイ23・25、27) とイエスは言いました。結論はこうです。「まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」
(マタイ23・26)
■この教えから学ぶこと
◆クリスチャンの受け継いだ遺産
パリサイ主義は、人間が神の前に正しく生活することを意図する上では、非常に良いものでした。事実、その教えの大部分は健全で、イエスの非難を受けるものではありませんでした。実際、私たちクリスチャンは、パリサイ人から感謝するべきいくつもの恩恵を受けています。第一に、私たちが親しんでいるヘブライ聖書
(旧約) を大切に守り伝えてきたのは、ほかならぬパリサイ人でした。また、今日の教会に伝わる数々の主要な教理も、元来、パリサイ派が定式化したのを取り入れたものです。シナゴーグ
(ユダヤ教の会堂) で形作られた組織のあり方が、パリサイ派をとおして教会にも受け継がれています。さらに、イスラエルの国家を守り保持しようと、パリサイ派は熱心に戦いました。彼らは、その教えを外部に伝えるために、「宣教」
を始めた最初の人々であり、宣教師も派遣しました。また、大きな期待をもってメシアを待ち望みました。そして
「イェシュア・ハマシア」 (メシアなるイエス) の最初の信者たち、初代教会に集った人々の中には、パリサイ派出身の人々が多数含まれていたのです。(タルムード・Moseley117)

←パリサイ人のニコデモは、夜イエスを訪ね、彼のメッセージについて質問した。
◆イスラエルへの深い愛
興味深いことに、イエスの教えは他のどの派よりも、パリサイ派の教えに近いものでした。だからこそ、パリサイ人に対してあれほど激しい言葉を浴びせられたのでしょう。さらに、「彼らはモーセの座を占めています」
と言うことで、その教えを肯定されました。ですから、イエスが非難されたのは、あくまで彼らの行動だったと言うことができるでしょう。
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