←着衣の四隅の房(ツィツィヨット)をわざと大きくして目立たせ、四つ角に立って人々に聞こえるように祈るパリサイ人。
◆シナゴーグ礼拝
パリサイ人は、神があらゆる場所に偏在されるので、神殿だけでなく、どこでも礼拝することができ、そしてその礼拝とは神殿で犠牲を捧げることだけではないと信じていました。神殿以外の場所で礼拝し、学び、祈る場所として、シナゴーグが発達していきました。また、シナゴーグは、人々の生活の中心の場ともなっていきました。このことも、エルサレムの神殿で権勢を誇っていたサドカイ派の反目を買うことになりました。紀元70年に神殿がローマによって破壊された後は、シナゴーグを中心に生活することが、ユダヤ人にとって非常に重要なこととなりました。
対照的に、サドカイ派は貴族階級によって構成され、民衆とかかわりをもっていませんでした。彼らの活動範囲はほとんど神殿の周囲に限定されていました。彼らは天使や他の霊的存在、あらゆる奇跡、そして特に死者の復活を否定していました。彼らは当時の宗教的合理主義者であり(マルコ12:18-23、使徒23:8)、サンヘドリンと祭司職の中という小さな世界に閉じこもっていました。また、神は人間のささいな日常になど全く気にも留めず、興味ももっていないと信じていました。彼らの教理は何に対しても否定的で、超自然的な存在、奇跡を信じない人々でした。そして、口伝律法ではなく、記述律法のみを擁護しました。
パリサイ派は保守的であると同時に進歩的でもありました。伝統を擁護しつつ、現代的な社会のあり方を取り入れようともしました。彼らは古いしきたりを新しい状況に適応させることに優れていました。パリサイ主義は、常に国民の多数派の必要に柔軟に対応しつつ、しかしその信仰の基本的な原則には真実であり続けながら、変化する時代や状況についていくことができたのです。
サドカイ派は神殿との結びつきが最も強く、適応力や進歩性に全く欠けていました。そのため紀元70年に神殿が破壊され、第二次ユダヤ反乱(紀元132-135年)の後に、神殿再建の希望が絶たれると、パリサイ派がユダヤ教で最も大きな影響力をもつようになりました。口伝律法は、神殿のない所でも、神の御前でいかに日々の生活を送るべきか、の教えであったため、ユダヤ人がイスラエルだけでなく、世界中に散らばっていった、1世紀以降の状況に対応することができました。パリサイ主義がその後のユダヤ教の基礎となったのです。
こうして、現代に至るユダヤ教の形体の、生みの親となったパリサイ人たちは、紀元200年ごろ、口伝律法を「ミシュナー」として書き表し、法典として編集しました。このミシュナーには、律法で命じられていることをいかに行うかが説明されています。これは神殿崩壊後、今日まで生き残っている、ラビ中心のユダヤ教を作り出したパリサイ主義の勝利の証しです。
今月は、パリサイ人に関する学習の前半として、このグループの成り立ちと教理について学びました。来月はいよいよ、彼らをとおして、主イエスがなんと教えられているのかについて学んでまいります。ご期待ください。
エルサレムからシャローム |