最終的には、時の王であったアンティオカス・エピファネスが、厳格な反ユダヤ法を強制的に施行したことにより、マカベア一族(ハスモン家)が立ち上がってセレウコス政権を倒し、ユダヤの地に、再びユダヤ人による統治を樹立したのです(くわしくは先月号のティーチング・レター『ハヌカー』を参照)。ハシディームは、マカベア一族によるクーデターに賛同していました。しかし、彼らの関心は政治よりも国民の宗教生活の方面に注がれていたため、マカベア家の政治を基盤とするやり方から離れていきました。
◆パリサイ派の誕生
ハシディーム運動から、次々とさまざまな「派」が生み出されていきました。その一つがパリサイ派でした。このグループは、新約時代のハシディーム運動の正統な後継者と言ってもよいでしょう。その他にもサドカイ派、エッセネ派などがあり、それぞれにはっきりと異なる教理をもっていました。そのため、律法解釈の違いから、しばしば対立し合っていました。
←パリサイ派は主として中産階級の人々から成り立っていた。
パリサイ派の構成員は主に中産階級出身で、国民の大多数を占める、自作農、ビジネスマン、商人、交易に携わる人々などでした。このことから、商業にかかわる複雑な問題について、さまざまな律法的解釈がなされ、そうした取り決めはタルムード(ユダヤ教の聖典、新約時代より後に成立)にも多く取り入れられました。一般のパリサイ人は律法解釈の正式な教育を受けていなかったので、律法学者(その大多数はパリサイ派だった)の指導を仰がねばなりませんでした。祭司やレビ人の中にも、多くのパリサイ派の人が含まれていました。
◆共同体 ―力バラー
「カバラー」と呼ばれる共同体がありますが、ここは会員になって訓練を受けることが求められる閉鎖的な社会です。この共同体により、厳格なパリサイ主義が栄えました。カバラーの会員は、「編み合わされた」あるいは「仲間」を意味する「カバー」と呼ばれました。このような宗教的共同体が、エルサレムの周辺にいくつか存在していました。カバラーへの入会規定は非常に厳しく、志願者はまず、十分の一の捧げ物や儀礼、食事などに関する規定等を含む、パリサイ派の律法解釈に完全に従うことに同意しなければなりません。いったん受け入れられると、穏健派のラビ・ヒレル門下では1カ月間、厳格なラビ・シャマイ門下では最長1年間という、仮採用期間(仮免状態)を過ごさねばなりませんでした。この期間、志願者は、この誓いを本当に守るかどうか、厳しくかつ集中的に観察されるのです。この仮採用期間をうまくパスできれば、パリサイ派の正式会員としての資格が与えられます。
それぞれのカバラーに、律法解釈の専門家である律法学者が立てられ、その統率下で共同体が組織されました。会員同士がお互いを吟味し、励まし合うだけでなく、安息目の夕ベなどに、定期的に組まれた集会に参加する機会も与えられました。これらの集会には、トーラー(モーセ五書=律法の書)の学びや食事をともにすることも含まれていました。
パリサイ派の影響は、これらの閉ざされた共同体の内部にとどまらず、シナゴーグでの活動、特にトーラーを教えること、公の慈善活動の監督など、広く外部にまで及んでいました。つまり、パリサイ主義はイスラエル国民に広く影響を与え、民衆の多くは正式会員でなくても、パリサイ派の考え方に傾倒していたのです。
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