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しかし、私たちは神の臨在を見失ってしまうことで、神との親しい交わりと究極の栄光と祝福にあずかる場にいる特権を逃してしまうのです。罪と清さは共存することができません。神は私たちと交わりをもつことができるように、私たちが一つもしみのない花嫁、聖なる民であるようにと望まれます。これは神にとって大切なことなのです。
天地創造の出来事について記録するのに、創世記のたった2章しか要しませんでした。しかし、神がご自身の民の中に住まおうとされた幕屋をどのように建てるかという指示を記録するために、13章も費やされていることを考えてみてください。ご自身の民とともに住まわれることは、神にとって優先的なことなのです。神はこのように言っておられます。「わたしはあなたを愛しているから、あなたもわたしを愛してください。わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となります。」
これが祝福、愛、親しさ、臨在、栄光の神であられるイスラエルの神のご性質です。神は、あわれみのない厳格な要求をされる厳しい方ではありません。神は天から下り、その栄光のうちにご自身を人間に差し出されるまでにご自分の民を愛される方です。神が起こされる現象を求めることにとらわれるのではなく、神ご自身を求めてください。そして、救いは賜物であることを覚えてください。
◆神の臨在の中にとどまる
私たちは神の臨在の中にいる訓練をする必要がある、とドゥワイト氏は締めくくっています。ジョン・ウェスレーは次のように書きました。「身体と魂によって人間は造られ、霊と訓練によってクリスチャンが造られる。」
霊は神から与えられるものですが、訓練には私たちの側の自制が求められます。訓練は犠牲を伴いますが、訓練しないことはより大きな犠牲をもたらします。神の臨在のために聖別されるより、神との交わりから離れるときに私たちは大きな犠牲を払うのです。
イエスは、ただ人々を罪から救うようにと言われたのではなく、行って弟子をつくるようにと言われました。私たちも、ただ地獄から救われただけでなく、弟子として召されています。これには努力が必要であり、主の臨在の中にとどまらなければなりません。みことばをとおして神を知る必要があり、それには聖書の学びとそれを実行することが必要です。
ドゥワイトは、「真理」とは「情報」ではなく「関係」であることを指摘しています。イエスはこう言われました。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)
イエスは、ただともに集まることを言ったのではなく、彼の弟子たちがみことばを学ぶためにともに集まるなら、そのときメシアの霊が彼らの間にとどまるだろうと言ったのです。私たちは神の臨在の中にいる訓練をしなければなりません。ユダヤの賢人は、「シェキナーは偽り者、人殺し、高ぶる者、反抗する者、強情な者、罪深い者、怠惰な者に立ち向かう」と言っています。この神の臨在の中にいる訓練をしないなら、私たちはただ怠慢で、弟子になるための時間を取っていないことになります。
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