「神の栄光の知識」は、救い主キリストの御顔に表れています(第2コリ4:6)。罪深い私たちは、死んでこの肉体から離れないかぎり、神の御顔を直接仰ぐことはできません。「神の御顔を見てなお生きる者はだれもいない」と神は言われました。この言葉は、私たちが「御顔を見て死ぬ」ほどの極みまで神に近づいた場合、そのご臨在の中に私たちがとどまっていることができるよう、主が私たちの命を取りさられて天の御国へ連れて行ってくださる、ということを示しているのではないでしょうか。父なる神とそのような親密さをもちながら、この世に戻ってきたいと私は思いません。しかし、神の臨在の中にいながら、なおかつ神が望まれる深いレベルの親密さと交わりをもつことができた、モーセやヤコブのような例があるのですから、私たちもまた神とそのようなかかわりをもつことを願う必要があるのではないでしょうか。
◆私たちに御顔を照らされる神とはどのようなお方か?
私の友人、ドゥワイト・プロイヤー氏による“神の御顔”についてのすばらしいメッセージがあります。この聖書的な語句の意味を理解するために、私の解釈に彼のものをいくらか交えていきたいと思います。
今日、世界中であらゆる種類の神々が礼拝されている中、聖書の神とはイスラエルの神、主であり、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であることを知る必要があります。この方は、ご自身の契約や約束を千代にわたって守られる忠実な神です。また、王の王、主の主であられる聖なる神です。すべてを焼き尽くす火である方であられる一方、一羽の雀が落ちて死ぬこともご存じの方なのです。この天地を造られ、混沌から秩序を生み出された創造主なる神です。また、「『わたしはある』という者である」と言われる、ご自身が存在される神であり、義を求められる、イスラエルの聖なる方です。
しかし、私たちが弱い被造物であることを神はご存じで、私たちの罪を許すために御子を救い主として遣わされました。神は、私たちが神を知ることができるように、聖書の中で、そして神の生きた言葉であるイエス(ヨハネ1章)の中でご自身を現すことを選ばれました。
「もしあなたが、神があなたから去ってしまわれたと思うなら、神が去られたのではなく、あなたが神から離れているのです」という言葉を聞いたことがあります。神は私たちとの交わりを求めて、常にともにおられます。神から私たちを引き離しているのは私たち自身であり、私たちが神から「顔を背ける」ことを選んだとき、この引き離された状態は起こります。罪を犯したり、神の言われることに無関心になるとき、このようになるのです。
なぜ神はご自身を私たちに現わされるのでしょうか。その創造された広大で測り知れない宇宙と比べて、非常に小さく取るに足らない私たちを心にかけられるのはなぜでしょうか。それは神の愛のゆえであり、神が愛だからです(ヨハネ4:4)。
もし、私たちに対する神の愛の大きさを本当に理解するなら、私たちは謙遜と畏敬のあまり神の御前にひれ伏すことでしょう。どれほど神が、愛と臨在をもって私たちに栄誉を与えてくださっているかを考えてみてください。私たちはいくたび、自分勝手な生き方によって神に不名誉をきせてきたことでしょう。神に対する無関心によって、どれほど神を無視してきたことでしよう。
|