◆主が御顔をあなたに向けられますように
アロンの祝祷で着目すべきもう一つの表現は、「主が御顔をあなたに向けられますように」というものです。“主が御顔を向けられる”という言葉には、主が御顔または体を私たちの方に向けられるというイメージがありますが、この場合は神の平安、神の「シャローム」を与えるという意味です。
聖書的な用語において、顔を求めるということは謁見を求めることを意味します(詩篇104)。王は家臣に「王の面前」に近づくことを許し、謁見を許すことで家臣に対する好意を示し、一方、顔を「隠す」ことで、彼らに対する王の好意がないことを表したのです(詩篇13:1)。古代エジプトでは、パロの面前に連れてこられた家臣は、王の口から直接許しの言葉が与えられないかぎり、王の顔を見ることさえできませんでした。また、王座に着いている王が、自分の顔を見上げている家臣を見下ろしたのであって、家臣が王を見下ろすことはあり得なかったのです。
ゆえに、この「主が御顔をあなたに向けられますように」というフレーズが確かに別の意味をもっていることがわかります。他の箇所をも参考にすると、実際には王がしかめっ面をして顔を伏せるのではなく、微笑みをもって“顔を上げた”ことを、このフレーズは意味しています。直訳では、「わたしの顔をあなたがたに落とさない」となります(エレミヤ3:12、創世4:5-6、ヨブ29:24参照)。これは主権者があなたに友情を表しているという表現です。実に、神が私たちに微笑んでおられるという力強いイメージなのです。
◆神との深く親密な関係
今までお話ししてきたことは、すべて「神の御顔を仰ぐ」という言葉についてでした。しかしこれは、「神はあまりに清いお方で、だれも神の御顔を直接見ることはできない」と言われたことと矛盾するように思われます。モーセが神の栄光を見たいと願ったとき、神は言われました。「『あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。』また主は仰せられた。『見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。』」(出エジプト33:20-23)
しかしヤコブは、「私は顔と顔とを合わせて神を見た」と言いました。これは、彼が神とともにいたときに感じた親密さを表しています。「いまだかつて(顔と顔とを合わせて)神を見た者はいない。」(ヨハネ1:18)
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