BFP編集部 2002年10月
先月号のパート1では、「置換神学」という用語について学びました。簡単におさらいしてみましょう。この神学は、教会創成期に入り込んだもので、「教会はイスラエルに取って代わった。ゆえに神の祝福はすべて教会のものであり、すべての呪いはユダヤ人のものである。したがって、聖書に書かれている契約と約束は、今は教会だけのものとなった」という教えです。この教えによって、悲しいかな西欧のキリスト教国は、ユダヤ人にとって最大の敵であり、迫害者という立場につくことになりました。そして、約17世紀にもわたる反ユダヤ主義という過ちに陥ってしまったのです。パート2では、この教えが新約聖書の教えにそぐわないものであるということを、みことばから学んでまいりましょう。
←スペインの宗教裁判では、異端とされたユダヤ人の処刑に、教会の重職が参加していた。好んで行われていた拷問は、レンガの窯で犠牲者をゆっくり焼き殺すというものであった。(1840年の銅版画)
◆新約聖書は「反ユダヤ主義的」なのでしょうか?
皆さまは、新約聖書のみことばが、反ユダヤ主義の根拠として使われてきたことをご存じでしたか。しかしその新約を書いたのは誰であろう。神から言葉を託されたユダヤ人にほかなりません。ですから新約中の厳しい議論は、ユダヤ人を否定し、拒絶するものではなく、彼ら自身への内部告発なのです。厳しい批判の箇所でさえ、原語に戻ってよく読むなら、特定の集団や宗教家を指していることがわかります。例えば、イエスはパリサイ人を非常に厳しく糾弾しましたが、同時に、彼らについてこう言っておられます。「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです。(マタイ23・2-3)。イエスはこのように自己正当化の中で、すっかり「的を外して」いること(これは我々も注意するべきことです)に、激しく心を痛めておられました。
「ユダヤ人はイエス・キリストを拒絶したゆえに呪われた」というこれまでの教えに反して、「教会はユダヤ人を愛するべきです」というのが、新約聖書のはっきりした教えです。エペソ書2章11から18節では、私たち異邦人は、メシアの血潮によって、イスラエルに与えられた契約、約束、希望に近い者とされたと教えています。ローマ書11章21、25節にも、「彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだ……イスラエル人の一部がかたくなになったのは、異邦人の完成のなる時まで……」とあります。また、イスラエルに対する「神の賜物と召命とは変わることがありません」(29節)というみことばのゆえに、やがて「イスラエルはみな救われる」(26節)時がくるのです。こうしてみことばが裏付けているように、神とイスラエル、そしてユダヤ人との関係は永遠に変わることがないのです。 |