◆神の王国の実現
「王国」という言葉は、聖書でも特に重要な概念で、その意味を正しく理解することが大切です。肉による努力は、たいてい力や富、支配力を増し加えることに焦点が置かれています。イエスの王国は、「救済と解放」を、心と魂というより深いレベルにおいて働かせる、天の王国に焦点が置かれたものです。イエスの革命は、人の内側から始まります。それは、現実世界に、神の愛を内側から現していくことです。イエスが「私の国はこの世のものではありません。」(ヨハネ18:36)と言ったことを思い出してください。
熱心党員が待ち望んでいた「救世主による救済の思想」が浸透していた弟子たちにとって、イエスの言葉を理解するのは難しいことでした。弟子たちは、政治意識が非常に高く、彼らをローマから解放してくれる王を求める風潮が強かった、ガリラヤ湖周辺に住んでいました。ガリラヤ湖畔で五千人の人々を養ったときのことについて、ヨハネはこう書いています。「そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。」(ヨハネ6:15)。それはちょうど過越祭の時期で、群集はその祭日にまつわる
「私たちは以前は奴隷であったが、今は自由にされた」というテーマを思い出していました。
群集は最後まで、自分たちの王国とそれを治める王を求めていました。また玉座を、軍隊を、そしてなによりもイスラエルからローマ人がいなくなることを求めていました。最後の最後まで、彼らはイエスが政治的・軍事王国を打ち立てることを期待していたのです。
最後の晩餐が終わった後、イエスが特に目をかけられた弟子・ペテロでさえも、ゲッセマネの園で自分の剣を抜いてローマ兵に立ち向かいました。彼は大祭司のしもべの耳を切り落とし、イエスに「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26・52)と叱責されました。それから、ご自分は熱心党のリーダーたちのようでないことを示すために、イエスは彼を捕らえに武装して来た人々に向かって言われました。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしをつかまえに来たのですか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。」(マタイ26:55)

←ゲッセマネの園でユダの裏切りにあったイエスが、大司祭の手先に対して剣を抜いたペテロを押し留めた。
後に、復活されたイエスに向かって弟子たちが最初に尋ねたことは何だったでしょうか。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」(使徒1:6)でした。いったい、イエスの王国はどこにあるのでしょう。
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