ユダヤ人はローマの支配にいらだち続けていました。エルサレムには『アントニア要塞』と呼ばれるローマ軍の駐屯地がありました。イエスはそこでポンテオ・ピラトによる取調べを受けられました。この要塞は、神殿の北壁に接する威圧的な建物でした。その塔は神殿よりも高く、宗教熱心なユダヤ教徒にしてみれば、聖所の眺めを台無しにしている、とんでもない代物でした。祝祭の時期になると、毎回イスラエル中からエルサレムに上って来た巡礼者たちが、オリーブ山上から神殿の壮麗な姿を眺めました。同時に、ローマ軍の駐屯基地が、まるで巨大なげんこつのように神殿よりも高く突き出ているのも目に入ったことでしょう。
←神殿を見下ろす、古代ローマ軍の「アントニア要塞」。
エジプトにおける奴隷の身から解放され、自由を与えられたことを記念して祝う『過越の祭り』の期間中、国中のユダヤ人がエルサレムヘ上ってきました。ところが現実は、周りにはローマ兵がうじゃうじゃいて、あれこれ指図してくるような状況で、とても「自由」など実感できませんでした。事実、「こうした祭りの期間中、ユダヤ人による反乱に備えて、神殿の北と西の回廊にあったすべての柱にローマ兵が配備されていた」と、歴史家ヨセフスは記録しています。
紀元66年に、メナヘムという熱心党のリーダーの1人が、エルサレムからローマの守備隊を追い出しました。そして、ユダヤ最高議会は熱心党の中から指揮官を任命し、戦争に備えるためにイスラエル各地へ送りました。ガリラヤ地方に派遣された指揮官の1人が、のちに歴史家としてユダヤ民族の戦争と歴史を記すことになった、前述のヨセフスです。彼は赴任地としてガリラヤのカナを選びました。なぜならそこは、すべてのガリラヤ人にとって、ローマヘの抵抗運動の中心地だったからです。
◆ガリラヤでの反乱
紀元67年、ローマのヴェスパシアヌス将軍が、反乱を食い止めようと進軍してきたとき、カナの町近くで大きな戦いがありました。ヴェスパシアヌスは、カナからさらにタボール山へ、次にマグダラの町へと進軍していきました。先月号のパート1を思い出してください。マグダラのちょうど後ろには、熱心党の司令部があるアルベル山がそびえていました。そこから多くの熱心党員が、世俗的な町であるマグダラヘ降りて行って、自分たちの支持者を増やし、住民たちを宗教熱心な人々へと変えていきました。もともとマグダラには、ローマ支配に順応している、ヘレニズム文化の影響を受けたユダヤ人が住んでいました。彼らは、戦争が始まると家に鍵をかけて閉じこもりました。それでもローマ軍は、アルベル山の要塞から来た人々と戦うため進軍してきました。ガリラヤ湖畔では激戦が繰り広げられました。このとき、この地域にはヘレニズム化された、ローマに抵抗しなかった5000人ものユダヤ人がいました。しかし、彼らでさえ、ローマ兵に追い立てられてティベリアの競技場まで行進させられ、奴隷として売り飛ばされる運命をたどることになりました。
ガリラヤ湖周辺のほとんどの町に、熱心党員が住んだ洞穴や険しい峡谷が今もあります。ハスモニア王朝時代からヘロデ王時代にかけて(紀元前1世紀)、これらの町々には、争いが起きたとき逃げられるよう、避難場所を持つならわしがあったようです。
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