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結局、ヘロデ・アンティパスは、人の姿が刻まれていない新しいコインを鋳造しました。その模様に最も多く使用されたシンボルは、棕櫚(しゅろ)の木でした。ですから棕櫚の木は、ガリラヤの宗教的なユダヤ人にとって、手ごわいローマ人への勝利を表すシンボルとなったのです。「われわれがコインの偶像を取り除かせ、清くした!」と。
←「棕櫚の日曜日」に使われた棕櫚の葉は、メシア的・かつ政治的メッセージを示すものだった。
このエピソードは、「棕櫚の日曜日の物語(イエスのイスラエル入場)」をより深く解釈する助けとなります。歴史家は、イエスの時代、オリーブ山にガリラヤの巡礼者たちの野営地が3つあったと言っています。祭りの季節、エルサレムの宿屋が満杯になると、ガリラヤから来た巡礼者は、オリーブ山上に宿営しました。棕櫚の日曜日の物語は、イエスがオリーブ山上から、ガリラヤ人に囲まれ、子ロバ(メシアを象徴するものの一つ)に乗って、エルサレムに入場する場面が描かれています。イエスの進む道に上着を敷いた人々は、もちろん、メシアの到来を熱望するガリラヤのユダヤ人でした。ローマを追い出してくれると期待し、イエスを迎えるのに彼らが選んだ象徴的な物は何だったでしょう。それはもちろん、偶像礼拝への勝利を意味する、コインに刻まれたのと同じ棕櫚の枝です。棕櫚の枝は、ユダヤ人の国民主義の象徴となりました。

→棕櫚の木でヘロデ・アンティパスの顔が消された二つのコイン。
後の紀元66年に起きた第一次ユダヤ戦争で、エルサレムの造幣工場を熱心党が占領した時、彼らは自分たちのコインを鋳造しました。ハレー彗星が空に見えた66年、熱心党の指揮官が、エルサレム内の駐屯地からローマの守備隊を追い出しました。熱心党員たちは、ありったけのコイン(当時は皇帝ネロの顔が刻まれていた)をかき集め、棕櫚の木とその下にヘブル語文字をデザインしたものを彫ったハンマーで、コインを打ち直しました。一つひとつネロの顔を上から棕櫚のデザインでつぶしていったのです。このコインが現代になっていくつか発見されています。
さて、イエスの弟子たちがどれほど反ローマ主義的だったかという疑問に答えるには、この時代のガリラヤ湖沿岸の人々の暮らしを見るのが一番でしょう。まず『ベツサイダ』です。ベツサイダはヨルダン川の水がガリラヤ湖に流れ込む河口に面し、少し内陸のジュリアス(1.6キロメートルも離れていない)というローマ人の町の隣に位置していました。
十二弟子のうち、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネの2組の兄弟がベツサイダ出身です。そしてヨハネの福音書に、ピリポもそうだったと書かれています。では、弟子たちのローマヘの態度は、実際どのようなものだったのでしょうか。 |