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紀元6年から7年にかけて、ローマのコポニウス総督がこの地で国勢調査を実施しました。このとき、熱心党はこれを「ローマの占領を認めることと同じ」ととらえました。そして、ローマに対して反乱を起こしました。ローマが支配権を確固たるものとしていく一方で、熱心党は『自由解放運動』を繰り広げ、民衆から幅広い支持を得ました。
熱心党の構成員は、安全な北部のガリラヤ地方、今日で言うゴラン高原に住んでいました。ガリラヤ湖北東にある峡谷の中の一つに、『ガムラ』と呼ばれる孤立した急峻な山があります。初期の指導者の一人、ガムラのユダ(ガリラヤのユダとも言われた−使徒5:37)という人物が、国勢調査の時に抵抗運動を始めました。彼のグループは「短刀を持つ者」という意味の『スカリー』と呼ばれ、この運動の政治的、宗教的思想の基盤を築きました。後に、彼らは熱心党と呼ばれるようになります。

←ガムラで発掘されたシナゴーグを見物する人々。
◆新約聖書とのつながり
福音書を正しく理解するために、「ローマに協力することは、最悪の行為である」と考えたスカリー(熱心党員)の要塞が、ガリラヤ湖周辺に点在していたことを知る必要があります。イエスの時代、ガリラヤの熱心党はまだ小さなグループでしたが、「ローマはこの地の正統な支配者ではない。われわれはこの占領から自由になり、独立を勝ち得る日を待ち望む」という信念を、声高に主張しました。熱心党の抵抗運動の拠点・ガムラは、3〜4世代の間、反ローマ運動の基地として用いられ、ユダヤ人の不満の高まりとともに、徐々に拡大していきました。
イエスが弟子たちを集められたガリラヤ湖周辺の村々は、ガムラの影響を受けていました。ハスモン王朝時代、ガリラヤの開拓地へ移り住んだ人々は、“約束の地”と“神への礼拝”について、宗教的・政治的に深い信念を持っていました。ですから、彼らの心は熱心党のメッセージに対して開かれていました。
ガムラのユダの後継者については、使徒行伝の中で触れられています(使徒5:37)。ペテロとヨハネが、神殿で福音を語ったという理由で牢に入れられた事件を思い出してください。彼らが最高議会(サンヘドリン)へ呼び出された時、議長ガマリエルは同僚たちに言いました。「あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」(使徒5:38-39)。そしてガマリエルは、社会問題になった人々の例を挙げました。その中で、「その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。」(使徒5:37)と語っています。また、ガムラのユダとその息子たち、さらに後には孫たちも、スカリーにかかわっていたという資料が残っています。 |