どんな事情だったにしろ、ヘロデは賢者たちの存在が気になり、気を揉みました。瞬く間に彼らの噂が広まり、大騒ぎする民衆を見てヘロデはイライラしていました。そこでヘロデは祭司と律法学者を呼び、「メシアはどこで生まれるのか」と詰問しました。彼らは「ミカ書5章2節によれば、『ベツレヘム』です」と回答しました。ヘロデは賢者たちを呼び、「ベツレヘムヘ行って、その乳児を見つけたら、報告に戻ってきなさい。そうすれば私も乳児を礼拝できるからと言いました。
賢者たちはベツレヘムに行き、イエスに出会い、礼拝しました。そして持参した贈り物−金、乳香、没薬などを贈りました。贈り物が3種類だったからといって、賢者が3人だったとは断定できません。2人か、あるいは10人だったかもしれません。質素な環境の中で、金持ちの賢者たちはイエスを礼拝しました。彼らはイエスをメシアとして、王として、イスラエルの油注がれた方として拝しました。
イエスは、王であることを示す、宝石で飾り立てられた宮殿に住んではおられませんでした。しかし、賢者たちは、神の啓示によってメシアを見極めることができたのです。粗末なたたずまいを礼拝の場に変えたのは、イエスご自身であり神のみ霊でした。
私たちもまた、人々にイエスを伝えようとするとき、外面的な信心深さや、外見的な姿形をアピールするのであってはなりません。覚えておかなければならないことは、人々に主の存在を示すのは、何よりもまず「私たちの内なる主」であるということです。
ここで、私自身のことを少し証しさせていただきます。先ほど述べたことは、私自身の体験に基づいています。私は10代の頃救われ、家族にもこの素晴らしい体験を味わって欲しいと切に願いました。私は内側から変えられ、外観や品行面でも、大きく変えられました。そして、主にあって正直に生きようと努めるようになりました。しかしその時の信仰は、ほとんど外面的なものでした。あるクリスマス休暇に大学から家へ帰った時、家中を道徳的に浄化しようと思い、母が夢中になっていた雑誌の占いページを破り捨てました。妹のたばこも捨てました。そして父の飲むウイスキーも捨てました。そうすることによって、家族に「主の光」が見え、救われるだろうと思っていたのです。しかし、私の行いは未熟であり幼稚でした。その行為は、家族の皆を怒らせただけに終わってしまったのです。
次の年、主のみ手の中で成長した私は、彼らに干渉しませんでした。その代わり、彼らに愛と感謝の言葉を書き送り、メシアとともに生きる生活がもたらす幸せを伝えました。これは、家族全員が救われる大切なステップとなりました。
長年待ち望んだメシアが誰なのか、賢者たちに分からせたのは、そのたたずまいではありませんでした。神の存在が、粗末な住まいをも宮殿に変え、礼拝場にも変えたのです。同じように、私の家族を主に引き寄せたのは、律法的に“浄化”しようとした私の行いではありませんでした。彼らを引き寄せ、知りたいという欲求に向かわせたのは、私が示した愛の中に現れた、神の存在だったのです。
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