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当時の歴史家ヨセフスの記録には次のようにあります。「自称『ユダヤの大王』ヘロデは、紀元前39年にガリラヤの知事となった。へロデは軍隊を率いて、地方の住民を征服するためにガリラヤヘ行った。多くのゼロテ派(熱心党)は地方のあちらこちらから逃げてアルベルの洞窟へ集まって来た。
彼らを捕らえるため、ヘロデは敵船などを引き寄せる引っ掛けかぎを用い、部下を絶壁の端から洞窟と同じ高さまで降ろして、ユダヤ人を追い出した。洞窟から出て来なかったユダヤ人は、ヘロデやローマ帝国に服従するより、軍隊の投げた火の矢によって洞窟の中で焼死することを選んだ。また、父親は子どもを、祖父は孫を高い洞窟から下の谷へ落とし、自分たちも飛び降りて死を選んだ。」ここからも、ローマ帝国に対するユダヤ人の強い拒絶感が伺えます。
二つ目の陣営はゴラン高原の傾斜地にあるガムラでした。ラクダの形をした丘なので、ガムラと呼ばれるようになりました。(ヘブル語で「ガムラ」はラクダを指す)
このゼロテ党(熱心党)の要塞都市は、ユダという人物によって築かれてから約100年間も存続しました。
イエスの死と復活の33年後、ヨセフスの記述によると、ユダヤ人がローマ帝国に対して初めての反乱を起こしましたが(紀元66年から70年までの『第1次ユダヤ戦争」)、このガムラがその始まりでした。ゼロテ党のメンバー960人がローマ帝国に服従することを嫌い、自殺を選んだ「マサダの集団自決」は有名な話ですが、「ガムラの自決」はもっと凄惨でした。最終的に5000人もの人々が飛び降り自殺の道を選んだのです。
ガムラはベツサイダから見える距離でしたから、ヤコブ、ヨハネ、ペテロ、アンデレ、ピリポは、毎夜、床に就く前に、遥か彼方にガムラの明かりを見ていました。時には、カチヤン、カチャンという、反乱のための軍事演習をしている音が、イエスの説教の合間に聞こえてきたことでしよう。
当時の人々は、マタイ5章3節から6節に書かれている「山上の垂訓」の教えとは、全く違う考え方で生きていました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」とイエスは言われました。それは、「誰かに重い荷物を1キロ運んでくれと頼まれれば、2キロ運んであげなさい」、または「ローマ軍人が、良きユダヤ人クリスチャンであるあなたのところへ来て、『私が1キロ運ばなくてはならないこの重荷を、今あなたがしていることをただちに止めて、私の代わりに運びなさい』と言ったなら、軍人が満足する距離まで運んであげなさい」という教えでした。イエスは「律法を守りなさい」とおっしゃっているだけではなく「天の父の愛によって、頼まれたことの倍はしてあげなさい」、つまり「心から喜んで相手が満足するまでしてあげなさい」と言われているのです。
そのようなイエスの教えに、弟子たちは動揺しました。ゼロテ党のシモンが、弟子の一人であることを考えてみると“依然、ゼロテ党のシモン”かも知れませんが、“以前のゼロテ党のシモン”ではなくなっていったのです。 |