士師記6章に、「ギデオンが羊の毛に露が降りているかどうかで神のみ心を調べた」という記事が載っています。この「ギデオンの羊の毛」に関しても、一言注意させてください。これはギデオンにだけ許されたことで、すべての人に適用すべきものではありません。自分のやりたいことを正当化しようとして、自分なりの「羊の毛」を選び、「もしもこの朝、晴れて太陽が昇っているのに、羊の毛が濡れているなら、主が答えてくださったことに違いない」などと言って、これを不正利用することができるからです。もちろん、羊の毛を地面に置いておくようにと、本当に主が言われるなら試しても良いのです。しかし、他の二つの原則にも照らし合わせながら、それが確かに神からのものであるのかを確認しましょう。
3:この時で良いのか。すべての状況が混乱なく進んでいるか
これが一番反則しやすい原則です。その召しが聖書に基づき、神のみ心であると確認すると、しばしば正しい時を知らせる信号の確認を忘れ、ボートも用意せずに深みへ漕ぎ出してしまうことがあります。インドヘの召しを受けた、ある牧師の話があります。彼は「これこそ聖書的な、自分への召しだ」という霊的な証明を得ました。彼と夫人は家をたたんで荷造りをして待ちました。ところが、彼をインドヘ招くような話はどこからもありませんでした。主のみ声を聞き間違えたのかとがっかりして、彼は自分の教会にもう一度戻っていきました。何年も経て間もなく引退という頃、彼が何年も成功を収めてきたセミナーを、今度はインドの牧師、宣教師のために開いてほしいという一依頼が教団から来ました。彼はちゃんと神のみ声を聞いていたのです。しかし、それが思いもよらぬタイミングだったのです。
タイミングはとてもきわどい問題です。あせって神より先走ってはいけません。主は未来をご存知で、私たちに決断するための充分な時間をくださいます。好機が訪れるのを注意深く見張っていましょう。もしそこに何か一つでも「ダメ」のサインがあるなら、主がすべてのドアを(もちろん、み心だった場合ですが)開いてくださるまで祈って待ちましょう。
さらに、聖書に基づいたすでにわかりきった日常的な事にまで神の指示を期待するような、肉的な律法主義に陥らないように気をつけましょう。これらの原則は、人生を左右する決断の助けにはなりますが、人生の普遍的原則を決めるためのものではありません。もしも、何を食べるか、何を着るか、何を飲むべきかということにまで祈る必要を感じるなら、実は律法主義にしばられている可能性があります。特別な状況以外では、主はこれらの決断を私たちにゆだねておられます。私たちは家族を愛するべきかとか、仕事に勤勉にいそしむべきか、などといちいち主にたずねる必要はありません。
では、神が私たちに選択を任されているみ心についてはどうでしょうか。神は誰と結婚するべきか、どんな仕事に就くべきかを、必ずしも教えてくださらないかもしれません。時によってこれらの決断は私たちに委ねられています。
これら3原則は、み心を選択する助けとなるだけでなく、このうちの一つにでも何か動きがあるのなら、それは主が私たちを次のステップヘ動かそうとされている準備段階を示しているかもしれません。よく気をつけていましょう。みことばを読んでいて、心に何か召しを与えられたと感じるかもしれません。かすかなみ声が、主に聞きなさいと勧めているかもしれません。あるいは状況が変わって、新しい仕事や献身への召しをいただくかもしれません。これらの変化があったら、次のステップは何であるのか、またいつなのかを知るために、他の二つの原則もしっかりチェックしましょう。
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