「世にあれ。しかし世のものとはなるな」と私たちは教えられています。ヨハネ17章のイエスの祈りには、教会に対するこの概念がはっきりとあらわされています。私たちは世の真っ只中に存在するべきです。そうすれば、私たちの内に輝く主の光を、世が見るでしょう。しかし逆に、私たちの人生や証しの中に、世に属するものが入り込むようなことがあってはなりません。さもなければ、神が選び与えてくださっている豊かな人生が、私たちから奪い去られてしまうでしょう。
◆人生の岐路における選択
やっとこのテーマヘたどり着きました。ここまでは、人生の土台となるべき基本原則について確認してきました。今度こそ「どうすれば私に対する神のみ心を知ることができるのか」という疑問に体当たりしていきましょう。
人生の十字路で答えを見つけるために、3つの原則があります。私はそれを「神の導きの3灯台」と呼んでいます。
- みことばとの一致があるか。
- 霊において「確かにそれが自分への導きだ」というしるしと平安、そして確信があるか。
- この時で良いのか。すべてが混乱なく進んでいるか。
イタリアに、水路が狭く危険な岩がゴロゴロしていて、夜は座礁させずに船を進めるのが不可能な港があります。そこで、船を安全に導くために、港の管理者が3つの灯台を立てました。この3つの灯りが重なってひとつに見える場所へは安全に船を入れることができますが、灯りを個々に見ると、船はコースを外れてしまいます。
これが神の導きにおける、3原則に当てはまるのです。この3つが揃い、初めて安心して船を進めることができます。
ではこの3つの原則を、詳しく学んでいきましょう。
1:みことばとの一致があるか
クリスチャンの中には、みことばにわざと違反したり、銀行強盗を計画したり、お金のために売春をしようと思う人はもちろんいません。しかし、私たちはすべての面においとしている方向がみ心にかなっているか、いつも自分に問うべきです。
安定を欠いた状況で、進むべき方向を探している場合はどうでしょう。例えば、ビザの期限が切れて、労働許可を持っていないボランティアが、イスラエルに滞在して働き続けたいと祈っていたとします。聖書は「カイザルのものはカイザルに返しなさし、」−つまり、「住んでいる地の法律に従いなさい」と教えています。ですから、そこにみことばへの違反があるのに、「イスラエルに留まり、祝福を受けたい」という祈りの答えなど、どうして神に期待することができるでしょう。もし、留まるように主から示されたのなら、許可が発行されることを神に信頼し、堂々とビザ発給事務局へ行けばよいのです。彼らが留まるのが神のみ心であれば、ビザ発給所は彼らを止められはしません。事実、そのように扉が開かれるのを、私はしばしば見てきました。 |