イエスはさらに続けられました。「まことに、まことに、あなた方に告げます。人のこの肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなた方のうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。私は終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、私のうちにとどまり、私も彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは、天から下ってきたパンです。あなた方の先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」(53-58節)
もちろんイエスは比喩的に言っておられるのですが、人々には理解できませんでした。聖書のあちらこちらに、「血を食べてはいけない、血を食べる者はイスラエルから追放される。血は命であり、命を食べてはならない」と書いてあるからです(レビ記17:10-14、申命記12:16、23、使徒15:20、29)。動物でさえ、定められた方法に従い、一滴の血も残らない状態でなければ食べられませんでした。それにもかかわらず、イエスは何ということを言うのだろうと、到底理解することはできませんでした。これを神の啓示なしに理解することは不可能なのです。
イエスはその言葉通り、自分の肉を食べ、血を飲みなさいという意味で言ったのではありません。霊的なことをおっしゃったのです。「わたしがあなた方に話した言葉は、霊であり、またいのちです」(63節)と書かれているとおりです。これらを、最後の晩餐、そしてそれに続く十字架と復活の一年前に話されたので、人々には理解できませんでした。最後にそれらの出来事が、イエスの言われた意味を明かすのです。
この教えの形はヨハネ2章と似ています。人々に一体どんな権利でこんなことをするのかと、権利を示すしるしを要求されたとき、イエスは予言的な言葉でお答えになりましたが、人々は理解できませんでした。「そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。『あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。』イエスは彼らに答えて言われた。『この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。』そこで、ユダヤ人たちは言った。『この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。』しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。」(ヨハネ2:18-22)
◆つまずいた多くの弟子たち
イエスの教えに多くの弟子たちは「何と難しい教えなのだろう。何のことか全くわからない」とつぶやきながら、離れていきました。前日は王にまつり上げようとした方を、翌日には捨て去ろうというのです。イエスが自分たちの望むような、ローマの圧政の下から救い出してくれる、政治的な指導者ではないことがわかったのです。前日の熱狂的な人気は、あっけなく終わりました。
そこには十二弟子だけが残りました(66-67節)。イエスはただ理解する霊的な目を与えられた者だけが残るとおっしゃっています。「父によるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない。」(65節)。
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