アンデレは群衆に食物を持っている者がいるか聞いて回りました。そしてやっと大麦のパン5個と小さい魚を2匹持っている少年を見つけ出しました(18-19節)。イエスはそのパンと魚を取り、天を見上げて感謝を捧げてから、座っている人々に分け与えられました。たった5個のパンと2匹の魚が、大勢の人々を満腹させたのです。その上、残った物で12の籠が一杯になりました。人々はイエスのなさったしるしを見て、「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言いました(14節)。そこでイエスは、人々が自分を王とするために無理矢理連れて行こうとしているのを知り、一人そこから姿を消されました。
ヨハネ6章4節に「ユダヤ人の過ぎ越しの祭りが間近になっていた」とあります。このほんの小さな情報は、多くを物語っています。他の主な祭日の時と同じように、人々は祭りのことで頭が一杯だったことでしょう。そこから連想されるのは、血、捧げ物の子羊、イースト菌抜きのパン(種なしパン)、エジプトからの脱出、そして優れた指導者モーセのことでした。
ローマの支配下にあった彼らは、モーセが先祖たちをエジプトの圧政から解放したように、ローマから解放してくれる、新しいモーセを痛切に求めていました。シナイ山頂のモーセと、荒れた丘の上のイエス、天からマナを受けて民に与えたモーセと、奇跡によってパンを与えられたイエス。奇跡のしるし、そして過ぎ越が重なり、モーセの預言「あなたの神、主は、あなたの内から、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない」(申命記18:15)という言葉を思い起こしたに違いありません。彼らはイエスをモーセのような指導者にしたかったのです。目分たちの王を、霊的な救世主ではなく、ローマの支配下から救い出してくれる、政治的な救世主にしたかったのです。さらにイエスの奇跡を見て、モーセがマナを与えたように、働かなくても日毎のパンを与えてくれる救い主だと思ったのかもしれません。イエスは彼らの信仰の浅さをとがめられました。
イエスにとって、十字架を受ける以外に王になる道があったでしょうか。いいえ。彼の王国は天におられる父から授けられるものです(詩篇2:7-12、ダニエル7:13-14)。父の備えられた道は他の方向にあり、ユダの獅子となる前に、世の罪を負う、神の小羊となられる必要があったのです(ヨハネ1:29)。しかし、まだその時が来ていなかったので、イエスは一人去られました。(15節)
◆「生命のパン」
イエスの人気は、ご自身の言葉によってますます上昇していきました。
翌日、一晩中そこに留まっていた何千もの大群衆に加えて、さらに近くのティベリヤから小舟で来た人々が合流しました。彼らはイエスが来られたことを知り、カペナウムヘ探しに行きました。
彼らがイエスを捜し当てると、主は、「あなた方が私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです」(26節)と、彼らの霊的ではない、肉的な動機をとがめられました。
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