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◆試練についてはどうでしょうか?
試練は神から来るもので、ご自身に立ち返るよう私たちを促します。また私たちの誠実度を知るために、歩みの中に設けられます。神は「イサクを捧げなさい」と命令することで、アブラハムを試みました(創世記22章)。また、イスラエルの民がご自分の教えを守るかを見るために、荒野で必要なマナを毎日一回、一日分だけ与えられました(出エジプト16:4)。マナを翌日まで取っておくことは、虫がついてしまい不可能でした。神は彼らが日々の糧をご自身に頼ることを望まれました。彼ら自身の選択で約束の地に入れなくなり、荒野をさまよった経験は、イスラエルの民とその子孫を訓練するためのものでした。また、自分勝手な意志を選択するのではなく、神に従えば、必要はすべて整えられることを学ばせるためのものでもありました。神はモーセに言いました。「私が、きょう、あなたに命じるすべての命令をあなたがたは守り行なわなければならない。そうすれば、あなたがたは生き、その数はふえ、主があなたがたの先祖たちに誓われた地を所有することができる。あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。」(申命言己8:1-2、5)
新約聖書ではヤコブが次のように語っています。「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(ヤコブ1:2-4)主のくださる試練は、私たち自身の恩恵とされるのです。「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(第1ペテロ1:7)。試練は、それぞれの状況において、神に対する愛が現されるため、また私たちの益とされるために、神によって定められたものなのです。ヨブは次のように告白しました。「神は私を調べられる。私は金のように、出て来る。」(ヨブ23:10)
◆「あなたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。」(ヨシュア24:5)
生ける神の王国は、生涯をとおして忠誠を捧げることが求められる場所です。そこでは、信仰が本物であることを証明するために、私たちの側からの献身が必要とされます。私たちが熱心に求めるべきものは、神が選んでくださった召しの道を歩むことです。生き方、存在のすべてが、主を喜ばせるものとなる必要があります。主の導きに従って、主の後に従っていく必要があります。
神の王国において、私たちはもうこの世に属するものではありませんが、それでも世に生きています(ヨハネ17:15-18参照)。ですから、神が与えてくださる豊かな生活の祝福と共に、日々選択や挑戦、そして障壁と対峙するのです。この霊的緊張と取り組んでいくのは簡単なことではありません。だからこそパウロが、「この世を去り、天国と呼ぶ御国の次元へ移される準備ができた」と言ったのだろうと私は考えます。彼はこう書いています。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(第1テモテ4:6-7)。
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