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◆試みと誘惑はどうして来るのか?

 神は、従順によって示される、完全な献身を求めておられます。ここまで読んだ限りでは、「ああしろ、こうしろ」と要求ばかりする、薄情で不親切なお方のように思え、こんな神に仕えたくないと思われるかもしれません。しかし神は、「罪を犯すなら即座に厳しく罰してやろう」と待ち構える、厳格で容赦のない裁判官のようなお方ではありません。むしろ、あらかじめ定めておられる究極の姿へと私たちが成長することを願う、あわれみ深く忍耐強い父なるお方です。

 これまでは「人生に対する神のみ心は何か」という大疑問から、神の導きについて学んできました。

 神の導きに従って歩んでいく(箴言3:5-6)中で、私たちは通り抜けなければならない試練に遭遇します。この種の試練は、これを通らなければ、脇道にそれてしまうことになるものです。ここで遭遇する「障害物」は、それが何であるのかをはっきりと示す、ピカピカ目立つ標識をつけています。そして、この障害を通って神のみ心にとどまり続けるのか、それとも最善の計画の道から離れ、脇道に入っていくのかを選択しなければなりません。このように決断を迫られる時、神の道を選び取るのか、それともずっと安易な、あるいは「魅力的」に見える脇道へ進むのか、思案している自分を発見します。私たちの選択は、私たちの魂がどれくらい神によって占められ、学んでいるのか、また、どれくらい世に属しているかの程度によって決まるでしよう。もし、ローマ書12章で教えられているように、自分自身を生きた聖なる捧げものとして主に捧げていくなら、私たちの意志と神のみ心がますます一致していくでしょう。しかし、羊飼いの導きに注意を払わず、学ぼうとしない反抗的な羊のままなら、いつまでも間違った選択をし続けるかもしれません。そして道を見失い、深刻な危険に自分をさらすことさえ起こるでしよう。

 これらの障害物とは何でしょうか。私はこれを「誘惑と試練」と呼びます。

 ヘブル語ではこれを『マザー』といい、誘惑とも試みとも訳すことができます。言い換えれば、この言葉は肯定的にも否定的にも使われます。誘惑は否定的意味合いですし、試練は肯定的意味合いになります。主と歩む旅路で遭遇する、これら一つひとつのチャレンジが、この両方の側面を持っていることは、聖書からもはっきりと学び取れます。

◆誘惑とは何か?
  誘惑は、マタイ4章3節に「誘惑する者」と書かれている、サタンによってもたらされます(第1コリント7:5)。サタンはまた、宗教的真理のメッセンジャーのようなふりをして、真理やみことばが本来言ってもいないことを歪曲して説きます(マタイ4:1-11、第1コリント11:14)。誘惑は、神の聖なる愛や、道徳的に正しい生活とは全く正反対の、肉の欲望を満たそうとする働きかけです。

 誘惑はサタンからだけでなく、この世を愛する心からも起こります。ヨハネはこれについて次のように書いています。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(第1ヨハネ2:15-17)

 
 
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