◆神の意志か、自分の意志か
主の導きに従って歩んで行くとき、周期的に「主の召しに従い続けるのか」、「従わないか」の選択を迫られる、分岐点へ差し掛かります。この分岐点には、神の道か、そうでない方向かを示す道標が立っています。このような決断の場に立つとき、いつもどちらの道へ進むべきか、思案している自分を見出します。聖霊によって、選択すべき道は分かっているのですが、肉が別の道に誘おうと引っ張るのです。
この時こそ、主が成してくださったことにどれほど感謝しているかを、言葉と行動によって示す好機となります。神のみこころと自分の意志を一致させることを、私たちの最も熱望する事柄としましょう。みこころと自分の意志を一致させて歩んでいる限り、常に主と共に歩んでいる平安で心が満たされます。
しかし、私たちの意志が神のみこころと対立するなら、生活に矛盾や不和が起こります。こうなると、私たちは霊において悪あがきをしがちです。それでも、敬意をもって召しを受け取るべきだと知っていますから、肉で歩んでいるその道から出ようとします。ある人は肉を克服して、神が用意してくださっている道へと戻っていきます。何をするべきかを心底理解するとき、そうすることができるのです。そして、聖霊にすっかり自己を明け渡して祈るなら、正しい選択へと動かされます。その後、たとえ最初は困難であったとしても、自己に打ち勝ち、主に従うことができます。私たちのほとんどが、主に従って歩んでいく中でこれを経験しています。
私にもこうした経験があります。1976年、エルサレムにある『スパフォード児童センター』という施設の理事の仕事を与えられた時のことを思い出します。当時、私は経営管理学修士号の過程を修了しようとしていました。この話は、わくわくするチャンスのように見えましたが、私が住んでいたオクラホマ州タルサから、あまりにも遠く離れていましたし、賃金は普通に就職した場合よりも低く、他の就職口への誘いも来ていました。エルサレムへ行くことがみこころであるとわかっていたゆえに、心に煩悶を覚えました。他の就職の誘いはとても魅力的でしたし、ガールフレンドも私の家族と同様、タルサに住んでいました。私は周囲のみんなをつかまえては、自分がエルサレムに行かないでタルサに留まるべきだと納得させてくれる、もっともらしい理由を引き出そうとしました。誰もが求めた答えを与えてくれました。非常に理にかなっていて、素晴らしい回答でしたが、それらはすべて、彼らの頭で考え出されたものでした。私はそのときすでに神の望みを知っていたのです。肉の思いと戦うことを止めて、「みこころに従ってエルサレムへ行きます」と主に祈ったとたん、圧倒的な平安に満たされました。だからといって、それを実行することが容易になったわけではありません。
イスラエル行きの片道切符を持って、新しい職に就くために出発した時のことを思い出します。私はセントルイスからニューヨークに向かう飛行機の洗面所に座り、涙を流していました。いいえ、大声で泣きわめいたのです。行く手に何が待ち受けているのか皆目見当がつかず、本当に恐ろしかったのです。しかし良い羊飼いが、その場所に私を欲しがっておられました。そして主は、「私に信頼し、人生の案内を任せてほしい」とおっしゃっておられたのです。それはスパフォードでの仕事と、BFP創設者―G.ダグラス・ヤング博士との出会いのためでした。 |