人生を神に明け渡すのは、とてもやりがいのあることです。それは、神からどんな指示をいただいても、「はい」と答えることだからです。何があっても、神が生活の中で最優先され、その他は二の次とされなければなりません。
主の弟子として、神は完全な献身を求めておられます。神は一人ひとりに、この地球上で託したい仕事をお持ちです。その使命を全うするためには、従順こそが最も重要なカギです。神の御国が前進するために、私たちに与えられている究極的使命を示すみことばが、聖書には満ちています。「さあ、行きなさい。いいですか。わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。」(ルカ10:3)、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイ10:37)、「イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、
この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。』」(ルカ18:29-30)、「『自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。』」(マタイ10:38)、「イエスは、みなの者に言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。』」(ルカ9:23-24)
ある人は、困難に見える働きの場所で、忠誠を証明する召しが与えられています。自分の経験からお話するなら、主の召しに従うとき、その職務を果たすための必要が備えられ、神の恵みが与えられます。主のみこころのために完全に明け渡された人生には、心底から神の祝福が感じられ、まさにやるべきことを行っているという霊的な深い満たしがあります。もちろん数々の危険も存在します。しかし、神の召しの内を歩んでいるとき、そこには恐れがありません。
1956年、エクアドルの原住民に福音を伝えるため、接触を試みた5人の宣教師が殉教しました。その一人であるジム・エリオットの妻、エリザベス・エリオットはその日のことをこう書いています。
「ある晩、他の宣教師夫人たちと私は、自分たちがもし寡婦になったらどうするのか、ということについて話し合いました。そのことに対して、神は、魂の平安と、『何が起ころうとも神のみことばが私たちを支える』という動かぬ自信を与えてくださったのです。そして、主がご自分の羊を送り出すとき、必ずその先には主ご自身がおられる、ということも。この境地に至るには、間違いなく神の導きがありました。私たちの誰もが、自分の夫と結婚した時、人生で何が最優先となるかについて、疑問をはさむ余地がないほど、はっきりと理解していました。人生の最優先事項−それは、神と、神から与えられた仕事です。これを第一とすることこそ、神のまことの弟子となるべき条件なのです。そして今では、私の人生の中で、このことが他のすべてを圧倒するほどに大切なものとなっています。」
殉教した夫、ジム・エリオットは、亡くなる前、次のように書き残しています。「神のみこころと信じるすてべの状況において、決して後ろに未練を残すことなく、妥協することなく、完全に力を注ぎ、出し切りなさい。」
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