みことばは明快です。「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マルコ12:30)これが、私たちに与えられた生き方です。主の意志を成し遂げるために、自分自身を生きた供え物として神に捧げ、すべての行いにおいて聖く、神の喜びとなるように歩むことです。主のみこころとご計画に沿って生きて行くために、自己の理解に頼ることなく、日々(必要なら毎時刻)主のみ前に出て、どのような選択をするべきか尋ねていかねばなりません。
イエスさえ、天の御父が示されたことだけに従って歩まれました。ヨハネ5章19節でイエスはおっしゃいました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。」
従うことを選びさえすれば、神が私たちを導いてくださいます。逆に言えば、私たちには神の導きが必要で、それを積極的に求めなければならないということです。そして従うことには、「何をするのか」だけでなく、「いかにするか」も含まれることをよく覚えてください。
◆私たちは神のもの
神に従うことを選択するとき、もはや気ままに好き勝手に振る舞うことはできません。羊が羊飼いの意志に逆らって、勝手にあちらこちらをぶらついているようであってはなりません。神の王国の一部となることを選択するとき、私たちは神の所有物として、彼の意思に従って物事を行い、仕えるようになります。パウロは私たちが置かれている位置について、次のように語っています。「奴隷も、主にあって召された者は、主に属する自由人であり、同じように、自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
あなたがたは、代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。」(第1コリント7:22-23)。
救いの賜物を受けるとき、私たちはもはや、無理やり服従させられる者ではなく、自由の中にあってみこころを行なう者となるのです。私たちは高価な値をもって買い取られた、主の奴隷です。(同23節)
ローマ時代、ある程度の金額を払えれば奴隷の身分から解放され、自由を買い戻すことができました。時には家族や友人が買い戻しをしました。奴隷から解放された人は、自由への代価を払ってくれた人に対して、感謝と共に、決して消えない借りを感じるようになります。そして、行動や態度でその気持ちを表わしました。それは奴隷としての義務的行為ではなく、感謝に動機付けられた自主的な行為でした。霊的に見るなら、誰もが神に反逆しているこの世と、自分自身の奴隷なのだと、パウロははっきり言っています。しかし、イエスが十字架でその代価を払ってくださったので、罪は文字どおり拭い去られ、主が犠牲として捧げてくださった血潮の贖いによって、私たちは謙虚に神の御座の前に進み出ることができるのです。私たちは、罪と自己の束縛から自由にされ、そして自由に神に仕えることができるようになりました。しかし、この自由が高価な値で買い取られたものであることを忘れてはなりません。そして感謝のうちに、代価を払ってくださった方、すなわち主イエス・キリストご自身への忠誠を誓うのです。
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