◆良き羊飼いに従うことを選ぶ
神は、従順によって示される、完全な献身を求めておられます。ここまで読んだ限りでは、「ああしろ、こうしろ」と要求ばかりする、薄情で不親切なお方のように思え、こんな神に仕えたくないと思われるかもしれません。しかし神は、「罪を犯すなら即座に厳しく罰してやろう」と待ち構える、厳格で容赦のない裁判官のようなお方ではありません。むしろ、あらかじめ定めておられる究極の姿へと私たちが成長することを願う、あわれみ深く忍耐強い父なるお方です。
神は私たちの良き羊飼いです。(詩篇23篇)私たちを愛し慈しんで、世話をしてくださるお方です。「知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である」(詩篇100:3)と書かれているとおりです。
神は実り豊かに生きて欲しいと心から願っておられます。そして、私たちが感じるよりもずっと深く、私たちの罪によって傷を受けておられるのです。神は人間が危険の中に走り込むのを見て、胸を痛めておられます。そして、まるで小さな子どもが何度やけどをしても、懲りずに熱いストーブへ飛びついていくように、愚かなまねをする私たちを救いたいと、父親のように切望しておられるのです。私たちはただその声に耳を傾け、その言葉に注意を向けさえすれば良いのです。
そうです。神は私たちの良き羊飼いです。ただし、単に羊飼いの後ろにくっついて、流れのほとりでのんびり草を食むためだけに召されているのではありません。自分自身の歩みに責任を負う必要があります。そして、どうすれば良い羊でいられるかを学ばなければなりません。良い羊はいつも羊飼いに注意を集中し、彼の言葉に耳を傾け、離れることなくせっせと足を運び、そして羊飼いの意志に従って自分自身を彼に捧げることさえ厭いません。
ローマ12章1〜2節こそ、神の私たちへの召しです。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」 箴言では同じことをこう言っています。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5-6)
ここで使われている「道」は、英語でパス(paths)と訳されています。パスは大通りではない細い小道を指し、複数形であることにも注目してください。つまり、神が私たちのために選んでおられる道は、太い幹線道路ではなく、ある一つの召しや職業、場所などから、主のご計画に従ってほかのものへと移り変わっていく、一連の小道であるかもしれません。人生における冒険の中で、日々神(羊飼い)に、「今日はどんな計画があるのか」を尋ねていく必要があります。個人的導きは、神が私たちにくださった賜物です。しかしその賜物を味わい、経験するには、普通の贈り物と同様、包装を解いて中身を取り出し、使わなければなりません。そうでなければ、いつまでもただ美しい包みが置いてあるだけで、何の価値もないのです。
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