◆義の道を歩む
赦しは罪を取り去りますが、それには悔い改めが伴わなければなりません。真の悔い改めは、神の義を自分の生き方に映し出そうと悪戦苦闘していくうちに、もうそれ以上罪を犯さないように私たちを変え、向上させるはずです。罪はもう決して、慣れ親しんだ、気安い客とはならないはずです。
父であり、創造主である神の「義」は、神のご性質そのものであり、私たちが悔い改め、神と他者に対して赦しを求めるなら、罪の生活を捨てる努力ができるよう導いてくださいます。神は私たちを愛しておられ、もっと親しく交わりたいと強く望んでおられるのです。なぜわざわざ神のご臨在から、その守りと祝福のもとから逃れるために、神に反抗したいと望んだりするのでしょう。それは正気の沙汰ではありません。
キリストが来られる以前の、いわば肉の法則に基づいた律法は、神のことばと命令に従うなら祝福を受け、従わないなら罰せられるというものでした(レビ26章参照)。この関係はどんな物理的法則にも当てはまります。しかし悲しいことに、私たちは自分の罪を手放すことができないまま、なぜ喜びに満たされていないのか、神の近くで豊かな実を結ぶ人生を送っていると感じられないのかと疑問を抱くのです。
詩篇139篇23、24節にはこう書かれています。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」
自分の人生を正すために神の助けが必要です。間違いなく、すべての行動はそれに対する反応を引き起こします。すべての行動に結果が伴います。すべてのことばが波紋を投げかけ続けます。語り行うことすべてが、周りにいる人々に、職場に、住んでいる地域に、隣人に、組織に、または伴侶に、子どもたちに、親戚に、友人たちに影響をおよぼします。私たちが行い、語ることのすべてが、物事を良くも悪くもし、容易にも困難にもし、愛情に満ちたものにも冷たい隔絶にもする、決定要因となるのです。
「赦し、赦される人生」の究極の目的は、内側から平安と喜びがあふれ、私たちが接するすべてのことにそれが伝わっていくことです。私たちが神と一つになっているとき、限りなく周りに良い影響を与えることができるのです。ヨム・キプールの礼拝では、民数記14章19、20節が中心的に読まれますが、これは日々、従うべきみことばでもあります。「あなたがこの民をエジプトから今に至るまで赦してくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」
主の答えは私たちの慰めであり、永遠の赦し、です。
「わたしはあなたのことばどおりに赦そう。」
エルサレムからシャローム |