彼はコリントの教会の人々に対して、会衆の中に存在する罪をあばく手紙を書き送りました。この手紙は人々を悲しませ、中には怒り憤慨する人々もいました。パウロは、そのような手紙を書いたことを最初は悲しく感じましたが、その手紙によって人々が心からの悔い改めの行動に導かれたのを見て喜んでいると書いています。御心にかなう悲しみは、悔い改めの行動と永遠のいのちに至る変化によって証明されます。ところが肉的な悲しみは、単に罪悪感を静めるだけで悔い改めにはつながらず、死に至らしめるだけです。
◆赦しとは何でしょうか
告白と悔い改めは赦しへと導きます。赦しとは、あなたに対して攻撃をした人への恨みを手放すことです。彼のとった行動を大目に見て、その貸しが帳消しであることを認めることです。これを神の助けなしに行うのはほとんど不可能に近いことです。しかし、過ちを犯した人を赦すことができるように、先に神が私たちを赦し、聖霊を与えてくださいました。これこそ主が示されたお手本です。そして聖霊は私たちの助け手となってくださいます。
ヘブル語では、「赦す」という意味を表す、いくつかのことばが使われています。[スハー]は、誰かのつま先を踏んでしまったときに使う「失礼しました」に当たります。また、スリハーには「大目に見る、赦す」の意味も含まれています。さらに「我慢する」とか、「持ち上げる」の意味を含む、『ネシャ』があります。「覆う」とか、「大目に見る」の意味の『カファル』ということばもあります。その他、やり過ごす、取り去る、隠す、洗う、精錬する、純化する、足の下に踏みつけるなどの意味を持つ用語があります。
これらは皆、動作を示すことばです。つまり「赦す」とは受け身ではなく、能動的な行いです。これは、あなた自身の意志で、進んでしなければならないことです。
◆赦しを求める
神からの赦しを求め、そしていただいていくことは、他人から赦しを得ようとする場合よりも容易です。なぜなら、神は完壁なお方ですから、自らの罪を認識するとき、私たちは間違いなく神と言い争ったりすることがないからです。悔い改めて、神の赦しを求めなければならないことは明白です。また、神は恨みを抱かれるような方でもありません。必要な悔い改めをし、赦しを求めるとき、神はそれを認めてくださるだけでなく、罪を犯したことさえ忘れてくださいます。私たちは神の御前で、もう一度、白紙に戻って再出発することができるのです。
しかし、他人に関してはそうたやすいことではありません。自分が誰かに対して過ちを犯したと認め、それを告白し、甘んじて恥辱を受けるのは、非常に勇気のいる、難しいことです。また、相手にとっても、私たちがしたことを赦し、忘れるのは困難なことです。時には、どちらの側も自分の態度や行動を正当化してしまいます。また、一方では、悔い改めて赦しを請うことはできないと感じてしまい、もう一方では、求められるのであれば赦しを差し伸べようと思っていることもあります。
|