これらのみことばのすべてが、神のご性質の中心である「赦しを与えること」への熱心さを示しています。
「神の赦し」について聖書に見られるもう一つのイメージは、私たちの父親、また良き羊飼いとしての神の姿です。父親の愛は、過ちが赦されるという期待を子どもたちに抱かせます。神がしばしば問題に直面させるのは、私たち自身のわがままゆえなのです。悔い改めて神のもとに立ち帰ることができるように、神は親として、私たちの悪い癖を矯正する訓練として、「愛の苦難」を与えます。神はいつも砕かれた人々の祈りを聞かれ、真に悔い改めた心に急いで赦しの手を差し伸べてくださいます。これこそ聖書のテーマ、「世の救い」であり、人が創造主である神と近しく交わることができるようになるための、人類に対する神の最大のご計画です。
◆悔い改めには行動が要求されます
ただ赦しを求め、祈るだけでは十分ではありません。まず身を低くし、自分の非を認めてへりくだり、次に罪から離れる決心をします。罪が神と自分との間を分断させていたことに気づいたなら、熱心に全身全霊をもって神を追い求めるべきです。聖書には次のように書かれています。「神に願い求め」(第2サムエル12:16、21:1)、「私を求めて生きよ」(アモス5:4)、「御前にへりくだり」(レビ26:41)、「私たちの心を彼に向け」(第1サムエル7:3)、「求め、探し、扉を叩く」(マタイ7:7)
第二に、悔い改めによる行動と、自分がしてしまったことへの悲しみの表現は、心からのものでなければなりません。旧約時代の預言者たちは、人々が歎き悲しんだり、断食をしたり、衣服を引き裂き、灰と荒布をまとうなどの悔い改めの行動をとっても、それが実際の心と裏腹なものであるならば、その欺きを咎めました。
第三に、真の悔い改めは悪い行いを改めさせ、良い行いをするように、前向きな歩みヘと踏み出させます。これについては、次のような数々の表現があります。「主に心を傾けなさい」(ヨシュア24:23)、「新しい心と新しい霊を得よ」(エゼキエル18:31)、「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け」(エレミヤ4:4)、「心を洗って悪を除け」(エレミヤ4:14)、「新しいいのちに生きる」(ローマ6:4)、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(第2コリント5:17)
◆御心にかなう悲しみは悔い改めに導きます
しかし、だまされてはいけません。なぜなら「肉的な悲しみ」というものが存在するからです。それは悪いことをした罪悪感に苦しむあなたの気分を落ち着かせるだけです。そこに悪から善への方向転換、悔い改めが存在しないなら、赦しも与えられることがない、ということになります。
コリント人への第二の手紙7章10節でパウロはこう言っています。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」
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