聖書には、種類の異なる罪に応じてそれぞれ定められた、犠牲に関する記述が長々と連ねられています。ここで扱われている罪は、すべて意図的でなく、誤って犯してしまったケースのみです。すなわち、生活上の過ちという事情をくみ取るために、神はこれらの犠牲を定められたのです。しかし、動物の犠牲は罪を覆うだけであって、それを取り除きはしません。また、犠牲はすでに犯してしまった罪にのみ有効で、未来に犯す罪の赦しまでは含んでいないのです。
新約聖書には、イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と書かれています。主はすべての罪のために捧げられた、ただ一度の捧げ物であり、十字架の上で血潮を流され、死んでよみがえることによって、私たちの過去、現在、未来におけるすべての罪の代価を支払ってくださいました。それによって、罪の代価である「死」という問題も解決してくださったのです。ヨハネが次のように保証しているとおりです。「……御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(第1ヨハネ1:7)
イエスの出現によって、悔い改めは彼の受難と死に結びつけられたことを新約聖書は明らかにしています。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」(ルカ24:46、47)
神に仕えるための生きた供え物として、自分たちの心、そして自分自身を神に捧げることができるように、イエスが代価を支払ってくださったのです。このことは、私たちがこの世と同調することをやめて、人生に対する神の完全なご計画に従っていけるように、「心と魂を一新させることによって新しく生まれ変わること」、すなわち悔い改めることによって初めて成し遂げられるのです(ローマ12:1、2)。
◆意図的罪の場合は?
悪いことと知りつつも、むやみに反抗することを選び、故意に罪を犯す人に、神は厳しく対応されます。「国に生まれた者でも、在留異国人でも、故意に罪を犯す者は、主を冒涜する者であって、その者は民の間から断たれなければならない。主のことばを侮り、その命令を破ったなら、必ず断ち切られ、その咎を負う。」(民数15:30、31)
ヨハネは、同じ考えをヨハネの第一の手紙5章16、17節で取り上げており、そこでは「死に至らない罪」と「死に至る罪」の2種類が語られています。「死に至らない罪」とは、私たちが日々、思いがけなく犯してしまう罪や過ちで、これらは自発的に告白し、悔い改めて赦しを求めるときに赦されます。
しかし「死に至る罪」のほうは、一過性の行動や過ちではなく、意図的に継続して罪を犯している状態を指し、そこには赦しは存在しません。なぜ赦されないのでしょうか。継続的・意図的な罪の習慣は、「告白し悔い改め、赦しを受け取りなさい」と魂に語りかける御声を無視することによって、聖霊を冒涜することになるからです。悪いと知りつつ進んで罪を犯し続ける人は、主から退けられます。その人はますます心を冷たく頑なにし、霊的に死んだ状態となっていき、ついには肉体も死んで朽ち果てるのです。あわれみ深い神は、それでもこのわがままな人々の魂を追い求められるでしょう。しかし悔い改めて神の御前に立ち帰るのでない限り、赦しをいただくことはできません。その終わりには死が待っています。
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